Loading AI tools
ウィキペディアから
加治田城(かじたじょう)は、戦国時代の美濃国加茂郡(岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城。本名却敵城(きゃくてきじょう)。別名・加治田山城。山の名前としては加治田山や古城山[1]、あるいは白華山と呼ばれた。現在は山全体を梨割山という。史跡未指定[2]。
加治田城 (岐阜県) | |
---|---|
別名 | 却敵城 加治田山城 古城山 白華山 梨割山 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 |
独立式櫓・二重櫓(初期)後に三重櫓以上(改築後の最大天守) 中腹屋敷城・城主屋敷城 麓には御殿屋敷城 |
築城主 | 佐藤忠能、佐藤忠康 |
築城年 | 1558年 - 1570年 |
主な改修者 | 斎藤利治、斎藤利堯 |
主な城主 | 佐藤氏、斎藤氏、森氏 |
廃城年 | 1583年頃~ |
遺構 | 曲輪、曲輪群、帯曲輪、腰曲輪、石積(石垣)、土塁、堀、堀切、畝状竪堀、切岸、虎口、岩場跡(旗立穴、米置場、狼煙台、見張台、櫓台)、天然チャート自然石垣、井戸(湧水)、総構え(川浦川・津保川内)等 |
指定文化財 | 未指定 |
再建造物 | 清水谷公園、登山道 |
位置 | 北緯35度29分52.6秒 東経136度59分35.9秒 |
地図 |
美濃国と飛騨国の入口(現:下呂市金山町)の道をつなぐ重要な街道で中濃に位置し、西濃(岐阜城)・大垣城・東濃(苗木城)・奥美濃(郡上八幡城)の中間位置としての要衝・要所・要害・要地・拠点[3] であった[4]。濃尾平野の北に位置する。
加治田城の築城時期は不明であるが、戦国時代の永禄年間(1558年 - 1570年)には、美濃佐藤氏の居城であった。佐藤忠能・忠康父子が築城したとも伝えられている。
佐藤氏は初め美濃斎藤氏に従っていたが、のちに尾張国の織田氏に内応。そのため永禄8年(1565年)に、堂洞合戦や関・加治田合戦において斎藤氏に攻め込まれるが、織田氏の支援も得ていずれも撃退している。しかし、関・加治田合戦において佐藤忠康が戦死したため、織田信長の命により斎藤道三の末子・斎藤利治が城主となった。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変において利治が死去すると、斎藤利堯が跡を継ぎ織田信孝の家老となった。しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う森長可との間で加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守。しかし、その後(1582年~1583年)、利堯の城主としての活動が見えなくなり、その所領は森氏が統合した[5]。
その後、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し加治田城を廃城にした。廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えた。
一の丸、二の丸、三の丸、四の丸まであり、石積み(石垣)、土塁、竪堀、横掘、切岸、虎口が残る。城域(総構え)が梨割山から津保川、川浦川辺りまであった[6]。
東公民館辺りが城主屋敷跡。絹丸(衣丸)の神社の横道より山に登る道があり、上まで行くと見晴らしがいい岩がある。昔はそこまで馬車で兵糧米を運び、そこから城へ人間が担いで運んでいた。岩は狼煙台としても使われていた[7]。三徳岩は今でもあり、旗を立てていた穴が空いている。
東海環状自動車道で通過するトンネルの真上が加治田城跡になり、向側のトンネルは長尾丸山(堂洞城長尾丸)の真下を通り、そこは佐藤忠能の娘・八重緑が串刺しにされた場所である[8]。
金華山、恵那山、御嶽山、伊吹山、白山、中央アルプス、南アルプス、鳩吹山、各務原アルプス、鈴鹿山脈、飛騨山脈、板取川源流高賀山方面、名古屋の駅ビル(JRセントラルタワーズ)等と遠くは伊勢湾まで見え[9]、中濃全域(濃尾平野・美濃国)が一望できる。現在でも城下町の面影が残る。富加町の龍福寺・郷土資料館・役場に城の資料が保管されている。
古城山(海抜270メートル)では尾根に沿って至る所に曲輪や土塁・堀・石積(石垣)・虎口が設けられており、急斜な山を中心に北は津保川、南は川浦川の天然の堀(川)に囲まれている。
山と川の間である南の平地には飛騨国(国府)からの重要な街道があり、街道に沿って町場(上町・中町・下町)、町場の北には、上之屋敷、殿屋敷(屋敷城)、新沢屋敷、東には小山(現天神山)に三徳砦で堅固な櫓、西の砦は旧加治田小学校辺り、さらに西には衣丸と捨堀、郷が洞、米取岩(場)やのろし場、この他にも、清水滝口・東の清水口・捨堀口・鳥帽子岩・霊雅山・小屋洞・田洞・石拾い・木戸外・馬場があり、龍福寺や清水寺も麓にあった。北の山では急斜面な岩場が多く、麓は津保川が流れて「北の難所」と言われており、登るのは困難である。加治田山(現梨割山・白華山)全域で城の道が繋がっており、至る所に曲輪や砦があり、山全体が城でもあった。
白華山清水寺入口から梨割山全域の砦辺りはチャート層の岩石で囲まれており、天然と人工の加工した石垣となっている。
景観が中濃全域、北濃、西濃、東濃の一部、遠くは尾張(現名古屋駅(JRセントラルタワーズ))や、晴れていれば伊勢湾まで遠望でき、中濃の真中の場にあった(支城の毛利山城(牛ヶ鼻砦)、一柳城(大洞城)も視認できる)。支城以外では、岐阜城・金山城・土田城・米田城・鉈尾山城・明智城・ 猿啄城・迫間城・関城・堂洞城等、他にも多くの城跡場を見渡せる(愛知県では名古屋城・小牧城・清州城・犬山城等である)。城下町も街道の賑わいがたえず重要な城であった。
「加治田城跡、現在城山加治田城跡(海抜270m)と呼ばれるこの山城は、戦国時代は却敵城(きゃくてきじょう)とも呼ばれていました。桶狭間の戦いで今川氏を破った織田信長にとって…(中略)…城主を継いだ斉藤新五は信長の家臣として各地の戦闘に参加し、天正10年(1582年)本能寺の変で戦死するまで、その一生を信長の天下統一に捧げました。その後の加治田城は天正10年(1582年)の加治田・兼山合戦を斎藤玄蕃を大将としてしのぎましたが、玄蕃の死後に兼山城主森長可(ながよし)の領地となり廃城になったといわれています。」(富加町教育委員会 2000年(平成12年)11月『富加町史』(一部改変)より)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.