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日本の戦国時代~安土桃山時代の武将。戦国大名斎藤道三末子で、美濃加治田城主佐藤忠能婿養子(加治田斎藤氏初代当主)。養父の跡を継いで加治田城主となる(美濃国内約2184貫) ウィキペディアから
斎藤 利治(さいとう としはる)は、戦国時代の武将。斎藤道三の末子といわれる。通称は新五郎、新五。諱は、長龍、長竜、利興ともいわれるが、『竜福寺文書』『宇津江文書』によれば利治が正しいとされる[11]。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 天文10年(1541年)? |
死没 | 天正10年6月2日(1582年6月21日) |
別名 |
別名:長龍、利興、利宣、政興、治隆、長竜、忠次 通称:新五郎、新五(又は新吾) |
戒名 | 厳珠院殿天長運大禅定門、厳珠院桃獄了英居士 |
墓所 | 岐阜県富加町加治田龍福寺、富山県富山市円光寺 |
官位 | [1][2][3][4][5][6] |
主君 | 斎藤道三→織田信長→信忠 |
氏族 | 美濃斎藤氏 |
父母 |
父:斎藤道三、母:小見の方 養父:佐藤忠能 |
兄弟 |
義龍、孫四郎、喜平次、利堯、濃姫(土岐頼純室、後に織田信長室)、女(斎藤利三正室)、女(姉小路頼綱正室)、女(稲葉貞通正室)、利治 義兄弟:斎藤正義 |
妻 | 正室院(源妙覚大姉、佐藤忠能の娘)[7]。 |
子 | 義興、斎藤市郎左衛門(通称市右衛門)[8]、斎藤徳元[9]、蓮与(速水時久室)、斎藤利宗室[注釈 1]。 |
天文10年(1541年)頃、美濃国の大名・斎藤道三の末子として生まれたとされる。
長良川の戦い後[12]、織田信長は道三の近親(義弟)の新五郎を助け置き、道三を殺して義龍が強奪した斎藤家の跡を継がせようとし、一所懸命地を宛て行った。そして、元服した新五郎は斎藤利治(斎藤長龍)と名乗り、信長に近侍して数度武功を顕した[13]。
永禄8年(1565年)8月、佐藤忠能らと共に岸信周の堂洞城[14]、同年9月には、長井道利の関城をそれぞれ攻め落とす(堂洞合戦、関・加治田合戦、中濃攻略戦)。堂洞城攻めで佐藤忠能の子・忠康が討ち死にしたため忠能の養子となり、永禄10年(1567年)に忠能が隠居すると加治田城主となる[15][注釈 2][16]。
この間の永禄8年(1565年)11月1日付けで、信長より武儀郡から加茂郡にかけての地13ヵ所、計2,184貫文を宛がわれている(備藩国臣古証文)[11]。兄の斎藤利堯を加治田城留守居とした[17]。
永禄11年(1568年)、近江国の六角氏(六角義賢)攻めにて参陣(観音寺城の戦い)。浅井長政の監視の為、多摩の対陣をする。
永禄12年(1569年)、伊勢国大河内城の戦いでは北方の進撃軍の部将に加わり、織田軍は伊勢一円を手中に入れた[18]。
元亀元年(1570年)6月、近江国小谷城攻めに参加し、森可成・坂井政尚らと支城の雲雀山城を攻撃して町を焼き払い、信長より甚だ賞せられる[19]。
同年6月の姉川の戦いにも従軍する。9月に石山合戦が勃発すると、信長が築かせた楼の岸の砦に稲葉一鉄・中川重政と共に入り砦を死守し、小戦に毎度武勇を逞しくした[20]。
元亀3年(1572年)4月、三好義継が松永久秀父子と共謀し畠山昭高に敵対すると、柴田勝家などと共に三好・松永方の交野城を攻囲[21]。
同年の7月、槇島城の戦いでは安藤守就らと先手となり、足利義昭が籠城する槇島城を攻撃した[22]。同年、織田三郎五郎・林秀貞と共に、志津・丘海・山中の三城に籠り守備し、浅井氏と対陣した[23]。
直後の朝倉討伐、小谷城攻めにも従軍した。この時、斎藤義龍の息子である斎藤龍興を攻め戦死させた[24][25]。
天正2年(1574年)、伊勢長島一向一揆攻めに参戦し信長に従い一江口より攻め鎮圧する(比類なき働きあり)[26]。
同年2月、武田勝頼の東美濃侵攻を阻止するため、信長の嫡男・織田信忠率いる軍に蜂屋頼隆、河尻秀隆、森長可、佐藤秀方等と従軍(岩村城の戦い)。
天正4年(1576年)、織田信忠が信長から織田家の家督と美濃国・尾張国を譲られ、岐阜城主となり、濃姫の養子となった前後から信忠付きの側近(重臣)となる。
天正6年(1578年)10月、神保長住への援軍として同盟国・親族である姉小路氏・三木氏の支援を受けつつ飛騨国経由にて越中国へ派遣され[28]、太田本郷城に入り、月岡野の戦いで河田長親率いる上杉軍を撃破し[29][30]、信長・信忠より感状を与えられた[31]。合戦後、援軍姉小路頼綱と越中斎藤氏の斎藤信利・斎藤信吉と共に富山城を奪還し越中国に橋頭堡を築いた。この時期に摂津国で、織田信忠隊の加茂砦が荒木村重に夜襲にあった経緯もあり、信長は利治に越中国を速やかに撤退し、本国に戻るよう指示し[32]、利治は直ちに撤収した。[33]この月岡野の戦いにて、上杉家を中心とした信長包囲網を崩壊させることとなった[34]。
天正7年(1579年)、有岡城の戦いでは、一手を率いて勇戦数度に及んだ[35]。
その後しばらくは動きが明らかでなく、信忠軍団にありながら、甲州征伐にも参加した様子がない[11]。加治田城にて信長・信忠より加治田衆・一族(家族)と共に所労(休養)をするようにと命をうけた[36]。
天正10年(1582年)6月1日、利治は信忠と共に羽柴秀吉の中国攻めを助ける為、御陣がある京都の二条新御所へ利治、妙覚寺は信忠が宿をとり、信長は本能寺を宿とした[37][38]。京都所司代の村井貞勝は本能寺向かいの自邸で宿をとった。
6月2日払暁、明智光秀の謀反(本能寺の変)を知った信忠は、父・信長のいる本能寺へ救援に向かおうとするが、村井貞勝と子息らによる「二条新御所へ移るべき」との提言により救援を諦め、守りに向かない妙覚寺から二条新御所へ移った。利治ら側近は事態は決したから逃亡するように信忠へ諭すも、信忠は明智軍による包囲検問を考慮し、誠仁親王を脱出させ、わずかな軍勢ながら防戦し明智勢を3度は撃退している。
その間に、京都に別泊していた信長・信忠軍や馬廻りの者が徐々に駆けつけると、明智軍は隣の近衛前久邸の屋根から二条新御所を弓矢・鉄砲で狙い打ったため、最期を悟った信忠は自刃した。
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