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三木氏(みきし、みつきし)は、日本の氏族。中世から近世まで栄えた豪族・大名の一族。
飛騨の三木氏(みつきし)は、藤原秀郷流[1]、または、宇多源氏佐々木氏支流とする多賀氏流[2][3]とされる。ただし、佐々木氏と多賀氏は同祖ではないため後者は信頼性が低く、『言継卿記』や『明叔禄』の記事から藤原秀郷流と推測する説が有力である[4][5]。
室町時代、三木氏は飛騨守護京極氏の被官であり、応永18年(1411年)に起こった飛騨の乱の後に、近江国甲賀郡三木から飛騨国に入国し、益田郡に勢力を有した[6]。その後、三木良頼のときに飛騨国司だった姉小路家の内紛に乗じて姉小路古川家を乗っ取り、その名跡を継承した(以降は、姉小路氏を参照)。
『飛州志』所収系図より
(系譜は姉小路氏を参照)
阿波忌部氏の後裔氏族。阿波国麻植郡の旧家。同阿波国麻植郡三木名の山岳領主。鎌倉時代後期から麻殖氏の宗家として活躍。南北朝時代は南朝に属し、室町時代は一族と共に阿波細川氏の被官となった。その後、三木姓を称し、天正13年(1585年)の蜂須賀家政の阿波入国時には当主の三木義村が蜂須賀側について一揆鎮圧に当たっている。江戸時代は帰農し麻植郡周辺の大庄屋を務めた。阿波国麻植郡三ツ木村に阿波三木氏が江戸時代に建築した三木家住宅 (美馬市)が残る[7]。子孫に三木申三や三木忠雄がいる。歴代宗家当主は大嘗祭などに麻植の麻で作られた御衣を天皇家に献上しており、現在の本家当主も大嘗祭に、麻植の麻で作られた御衣を献上している[8]。
讃岐の三木氏(みきし)は二氏ある。
神櫛王を祖とする讃岐国造の後裔氏族。室町時代前期から中期にかけて、讃岐国三木郡に勢力を有していた。大化の改新前後では御城氏(みきし)を称したともいう[9]。
橘氏支流の讃岐永成の一子で讃岐元重が讃岐国三木郡を領して、三木氏を称したことに始まる。戦国時代初頭には、三木高長が強勢を誇ったが、戦後時代末期に三木秀成が十河存保に従い、各地を転戦し、その後、若年にて戦死したため断絶した[9]。
播磨の三木氏(みきし)は、伊予国の河野氏の支流とされ、播磨国神崎郡三木の国人。室町時代、播磨国英賀に勢力を有し英賀城主であった。三木通秋などがいる。羽柴秀吉が中国制圧後、新崎郡辻川に移住。江戸時代後期には、姫路藩の大庄屋となっている。江戸時代に建築された三木氏住宅が兵庫県指定文化財となっている[10]。
三河国碧海郡三木郷(現在の愛知県岡崎市上三ツ木町)発祥の松平氏の庶流。松平信忠の子松平康孝を祖とする家柄であるとされるが、康孝ではなく、兄の信孝を三木松平家初代として扱う文献も多い。
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