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江戸時代後期の大名。豊前小倉藩7代藩主。従四位下・左京大夫、侍従。府中小笠原氏26代。小笠原家宗家8代。小笠原忠固の次男。 ウィキペディアから
小笠原 忠徴(おがさわら ただあきら)は、江戸時代後期の大名。豊前国小倉藩の第7代藩主。官位は従四位下・左京大夫、侍従。小笠原家宗家8代。
文化8年(1811年)2月16日、父忠固の嫡子となる。文政7年(1824年)5月15日、第11代将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下伊予守に叙任する。後に左京大夫に改める。天保6年12月16日、従四位下に昇進する。天保14年(1843年)9月3日、父忠固の死去により、家督を継いだ。嘉永2年(1849年)12月16日、侍従に任官する。
父の時代から小倉藩は財政難に悩まされた上、複雑な政争もあって家老や藩士など300人以上が筑前国黒崎に出奔するなどの事件もあって、忠徴が継いだ頃の小倉藩は混迷を極めていた。忠徴はこのような藩を立て直すため、積極的な藩政改革に取りかかる。
まず、忠徴は不正を許さず、これらを厳しく摘発する。さらに安政元年(1854年)には種痘を実施した。その他にも、農民に対して善政を施すなどして藩政を立て直した。安政3年(1856年)、49歳で死去した。死後、家督は養子の忠嘉が継いだ。
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