日本の江戸時代中期の大名。三河西大平藩初代藩主大岡忠相次男で、西大平藩2代藩主(大岡忠世家4代当主)。従五位下紀伊守・能登守・越前守。大番頭・御小姓組を勤めた ウィキペディアから
大岡 忠宜(おおおか ただよし)は、江戸時代中期の旗本・大名。三河国西大平藩2代藩主。大岡忠世家4代当主。諱は忠宣ともいうが、誤記とされる。官位は従五位下・紀伊守、能登守、越前守。
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西大平藩初代藩主となった大岡忠相の次男として誕生した。兄の市十郎が早世したことにより世子となり、父の忠相と共に8代将軍・徳川吉宗に仕えた。享保8年(1723年)に将軍吉宗に初めて御目見する。
享保11年(1726年)、江戸城西丸小姓組番士となる。享保19年(1734年)、従五位下・紀伊守に叙任の上、江戸城本丸小姓組番士に異動となった。延享4年(1747年)、小姓組番士を辞し、菊間広縁詰となる。宝暦2年(1752年)の12月に父・忠相が死去し、同年に家督を相続する。越前守に転任し、大番頭に就任。明和2年(1765年)、長男の忠豫を廃嫡し、次男の忠恒を後継とした。
父母
正室
側室
子女
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