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堂洞城(どうほらじょう)は、美濃国の中濃(岐阜県加茂郡富加町夕田)にあった日本の城(平山城)。別名・堂洞山城、堂洞掻上城。濃尾平野の北で、加治田城から目と鼻の先にある。
堂洞城 (岐阜県) | |
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別名 | 堂洞山城・堂洞掻上城 |
城郭構造 | 平山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 岸信周 |
廃城年 | 1565年(永禄8年) |
指定文化財 | 史跡等未指定[1] |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯35度29分06.7秒 東経137度00分01.6秒 |
地図 |
創築者・築城年は不明。蜂屋頼隆が織田信長に内心してから、天文・永禄の頃には岸信周(岸勘解由)が城主であった。
信長の中濃攻略阻止のために築かれた城で、加治田城の佐藤忠能、関城の長井道利、堂洞城の岸信周の中濃三城で盟約を結んだが、佐藤忠能が信長に内通したため、永禄8年(1565年)の堂洞城を中心とした堂洞合戦の後に落城[2]。そのまま廃城となった。
本能寺の変後、混乱に乗じて斎藤利堯と森長可による加治田・兼山合戦の際、堂洞城跡は森長可の加治田攻城戦の本陣として使用された。
一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・北の曲輪・大手曲輪・出丸曲輪・池曲輪・長尾丸があった。また平段丘の城周りには池が多くあった。
堂洞掻上城の名の通り、土を掘り、盛り上げた地形を活かした城である。
本丸には「天守構え」があったと軍記物『信長公記』に記述がある。天守に類似した建物の存在を推測する必要があるとも指摘されている[3]。
堂洞城は蜂屋の領主岸勘解由のたてこもった砦であります。天下平定を目指して尾張から美濃に攻め入った織田信長は、永禄八年(1565年)八月にこの砦を攻撃して落城させました。初め信長は、勘解由の武勇を惜しんで投降を勧告しましたが、主君である斎藤氏との義を重じた。
勘解由はこれを固く拒んだため戦いとなり、信長は八月二十六日高畑山に本陣を構え、先に信長に通じていた加治田城主佐藤紀伊守と共に夕田・蜂屋の両面より堂洞城の攻撃を開始しました。
勘解由の城兵と共に信長軍を迎え撃ち、辰の刻午前八時から申の刻午後四時までの八時間にわたって抗戦しましたが、長男信房は討死し、敵兵が内に乱入するに及び、城に火を放って妻と共に自害して果てました。
ここにあります岩は、八畳岩と言い勘解由や城兵たちがこの岩の上で月見の宴を催したと伝えられています。 — 現地説明板「堂洞城由来」
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