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正徳4年(1714年)10月27日、岩国領第5代領主・吉川広逵の長男として生まれる。
正徳5年(1715年)6月19日に父が早世すると、7月23日に数え2歳で家督を相続した。
享保2年12月(1718年1月)百姓一揆が起こる。享保13年(1728年)3月、陣下の柳井町で火災が起こり175軒を焼失する。
享保16年12月(1732年1月)、岩国札が発行される。享保17年(1732年)は旱魃や虫害により、年貢が3分の1の減収となる。
元文3年(1738年)6月、この3年前まで国家老として領政を牛耳っていた吉川長程らによる着服や収賄などの不正が発覚する。
明和元年(1764年)10月13日死去、満49歳。子はなく、吉川元春以来の血筋はここで絶えることになった。
毛利輝元の次男毛利就隆を祖とする徳山藩から藩主毛利広豊の九男・経倫を養子に迎え、12月2日に家督を継いだ。
経永の父・ 広逵は満1歳で襲封し満19歳で早世した。その一粒種として生まれた経永も満1歳で襲封したため、岩国領では幼君・若年領主に代わって家臣団が領政を代行する状態が都合40年にも及んだ。
このため政治は弛緩し、また広逵の代まで岩国領の財政は潤っていたため、これが公金横領などの不正を発生させる原因となった。
吉川長程による専権は経永の元服後も続き、経永の親政が始まったのは吉川長程が死ぬ享保20年(1735年)のことである。しかし皮肉なことに岩国領では経永の代になって災害が相次ぎ、吉川長程らはそれに何ら有効な対策を取っていなかったため、経永が領政を執るようになった頃には既に領財政は傾き始めており、以後加速度的にその窮乏化が進んでいくことになった。
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