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鎌倉時代末期の北条氏一門 ウィキペディアから
北条 家時(ほうじょう いえとき、応長2年/正和元年(1312年) - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日)[1])は、鎌倉時代末期の北条氏の一門。大仏流北条氏最後の当主。大仏 家時(おさらぎ いえとき)とも。
嘉暦2年9月7日(1327年9月22日)に維貞が死去し、跡を継いだ兄・高宣もその翌年の嘉暦3年(1328年)4月に亡くなった[1]ので、幼少にしてその跡を継いだ。
その後、後醍醐天皇らの討幕運動(元弘の乱)が起こると、二人の弟とともに家時自らが大将の一人として幕府軍を率い、河内金剛山千早城に立て籠もっていた楠木正成を攻めていた(千早城の戦い)[2][3][4]。
だが、足利高氏 (のちの尊氏)の離反や六波羅探題の滅亡もあって軍は四散。家時は奈良に逃れた貞宗や高直[5]とは分かれて鎌倉へ赴いたが、正慶2年/元弘3年(1333年)5月22日に新田義貞に攻められて、得宗家当主の北条高時らとともに自害した(東勝寺合戦)。享年22。
弟の貞宗と高直は、兄・家時らの死を知ると、6月5日には出家して縁戚関係にあった足利高氏[6]に降伏[5]。しかし、建武元年(1334年)3月9日に北条家の残党らによる鎌倉侵攻事件などがあったこともあり、高氏の助命嘆願も叶わず7月9日に両者とも処刑され[5]、大仏流北条氏はここに断絶した。
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