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加賀藩5代藩主。加賀前田家6代。前田綱紀の三男。子に橘姫(1739-1740、六女、母は蘭(側室、木村小左衛門(江戸浪人)の娘))、前田利実(1743-1766、九男、母は智仙院(側室、勢、畠山玉 ウィキペディアから
前田 吉徳(まえだ よしのり)は、加賀藩の第5代藩主。加賀前田家6代。先代藩主前田綱紀の三男。母は側室の預玄院(町、三田村氏)。前田利常と徳川頼房の曾孫にあたる。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄3年8月8日(1690年9月10日) |
死没 | 延享2年6月12日(1745年7月11日)[1] |
改名 | 勝丸、犬千代(幼名)→利挙(初名)→利興→吉治→吉徳 |
別名 | 又左衛門(通称) |
戒名 | 護國院殿佛鑑法性大居士 |
墓所 | 石川県金沢市野田町の野田山墓地 |
官位 | 正四位下、左近衛権少将、若狭守、加賀守、左近衛権中将、参議 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 加賀藩主 |
氏族 | 前田氏 |
父母 | 父:前田綱紀、母:町(三田村氏・預玄院) |
兄弟 | 吉徳、利章 |
妻 | 正室:松姫(徳川綱吉の養女・徳川綱誠女、光現院) |
子 | 宗辰、重熙、利和、重靖、重教、利実、治脩、喜代(浅野宗恒正室)、総(前田利幸正室)、楊(佐竹義真正室)、暢(酒井忠宜正室) |
元禄15年(1702年)2月14日、松平姓を与えられ、松平犬千代[2]、のち諱を利挙(としたか)、利興(としおき)と称する[3]。また、同年6月9日に元服し、祖父・光高の従兄弟にあたる第5代将軍・徳川綱吉の偏諱を授かって吉治(よしはる)に改名。宝永5年(1708年)、将軍綱吉の養女(尾張藩3代藩主徳川綱誠の娘)松姫を正室に迎える。享保8年(1723年)5月、父綱紀が高齢で病のためもあって、家督を譲られる。このとき名を吉治から吉徳と改め、6月15日に加賀守を称し、8月18日に左近衛権少将に昇進した[4]。
吉徳も父と同じく藩政改革に取り組むため、足軽出身の大槻伝蔵を重用して改革を行なった(後の巷説では男色相手の寵臣ともいわれる)。この頃、加賀藩では綱紀の改革により家格はさらに上昇し(御三家に準ずる待遇)、国内においても藩政は安定していたが、100万石の大藩ともなると何事においても出費が大きかったので、綱紀の治世末期から吉徳が家督を継いだ頃には、藩財政の動揺は隠せないものとなっていた。
そこで伝蔵主導のもと、質素倹約、公費の節減、米相場に対する新投機方法の設置、新しい税の制定などの改革が行われた。この財政改革によって、確かに加賀藩の財政はある程度立ち直り、一部は成功した。この功績によって、伝蔵に対する吉徳の信任はさらに厚くなり、大槻はさらなる改革を目指して藩政を主導してゆくようになった。しかしこれに対して、改革による質素倹約などの制限や、成り上がり者に過ぎない伝蔵に対する嫉妬などが元で、藩内における保守派や門閥層の間に不満が集まるようになった。
延享2年(1745年)、吉徳は56歳で死去し、跡を嫡男の宗辰が継いだ。その翌年、伝蔵は前田直躬ら保守派によって失脚させられた。そして吉徳と伝蔵の改革が、皮肉にも後の加賀騒動の遠因となった。
吉徳は自身の死の5か月前に生まれた治脩まで10人の男子を残したが、宗辰(長男)は翌年に早世し、以後重熙(次男)、重靖(五男)、重教(七男)、治脩(十男)と都合5代にわたり、兄弟で相次いで家督が相続された。残る5人は早世した。
※日付=旧暦
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