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安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将 ウィキペディアから
内藤 元忠(ないとう もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。父は毛利氏の重臣・内藤隆春[1]。母は内藤氏家臣・阿座上盛豊の娘[1]。一時期、林元尚の婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗ったが、兄・内藤元家の死に伴い、内藤家に戻って家督を継いだ[2]。
毛利氏重臣・内藤隆春の次男として生まれ[1]、毛利輝元と秀就の二代に御手廻(側近)として仕える[2]。
林就長の弟である林元尚が嫡男のいないまま死去すると、元尚の一人娘と婚姻し、婿養子となって「林仁左衛門尉」と名乗った[2]。
慶長17年(1612年)6月15日、兄・内藤元家が嫡男のいないまま病死すると、外戚でもある内藤家が断絶することを憂えた輝元の計らいにより、元忠が内藤家に戻って元家の後を継いだ[1][2]。内藤家に戻った元忠は通称を「左近允」と改め、後に「左衛門尉」と名乗る[1]。なお、林家は元忠の嫡男である正助が継いでいる[2]。
元和3年(1617年)12月13日、秀就から諸役目についての法度を与えられる[3]。
寛永2年(1625年)5月2日に死去[1][2]。次男の元俊が14歳で後を継ぎ[2]、同年8月13日に長門国美祢郡伊佐村の内の1620石と阿武郡高佐村の内の180石の合計1800石を与えられている[4]。
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