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林 就長(はやし なりなが)は、戦国時代の武将。安芸国の戦国大名毛利氏家臣。備後国松岡城(現広島県世羅郡世羅町日向)主。
旧姓は菊池氏で、父・武長から林氏を名乗る。
父・武長は、菊池能運に仕えていたとされ、能運死後に備後へ渡りその後毛利元就に仕える。
兄・長早が小早川隆景に仕えたため、次男の就長が林宗家を継いで、元就に仕える。
天文24年(1555年)の厳島の戦いの論功にて元就より「就」の字の偏諱を賜る。吉田物語にて毛利輝元に厳島で往時の合戦の状況を伝えるという話が採録されている。
永禄5年(1562年)より始まる第二次月山富田城の戦いに従軍し、使者、目付等を任されていることが吉田物語に記載されているが、それより以前のことはよくわかっていない。
天正10年(1582年)の本能寺の変、翌年の賤ヶ岳の戦いを経て、羽柴秀吉へ毛利氏が接近を図るようになると、同年12月から秀吉と毛利輝元の連絡役を務め、上方との折衝に当たった。また、因幡・伯耆の統治を任された井上就重の補佐を小倉元悦と共に行い、天正19年(1591年)より平佐就之の後任として柳沢元政と共に石見銀山の銀山奉行を務める。
天正14年(1586年)の九州征伐では息元善と共に豊前国香春岳攻略戦に参加。息共々、戦功を挙げて豊臣秀吉から感状を受ける。天正16年(1588年)には、豊臣秀吉より豊臣姓を拝領し、7月には肥前守に叙任される。
また、天正15年(1587年)から天正18年(1590年)にかけて行われた惣国検地では、検地奉行、打渡奉行を勤めている。
聖神社(現広島県世羅郡世羅町川尻)を再建し、鎧等を奉納。天正13年(1585年)に毛利元就座像を石見銀山長安寺に奉納(現在は山口県防府市毛利邸にある)する等の活動も伝わる。
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