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宇都宮氏2代当主 ウィキペディアから
八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。
八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。藤原兼房の子兼仲の子[2]で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に中原宗家の子とする説もあるものの、宗家の方が宗綱より後の時代(12世紀後半)の人物であるため成立しない(ただし、宗綱の弟される宗房は中原氏を称しており、中原氏と宇都宮氏が何らかの親族関係にあった可能性は高い)[3]。また、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。
応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。
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