光陽郡(クァンヤンぐん、こうようぐん、朝鮮語: 광양군)は、大韓民国全羅南道にあった郡。現在は光陽市の一部である。
- 1392年 - 李氏朝鮮建国。監務が県監になり、完全に独立な行政単位となった。
- 1597年 - 小西行長の兵隊が光陽邑城を占領したが、全羅兵使・李光岳と求礼県監・李応書が統率した朝鮮兵隊によって奪還。邑城が廃墟になり、県も一時的に順天都護府の管轄下に入った。
- 1600年から1604年 - 廃墟化した邑城の復旧とともに、県が再置された。
- 面里制が敷かれるとともに、県内に12面が成立した。1789年の時点で、県内には3706戸、17586人があり、女性のほうが男性のほうよりやや多い。
- 牛蔵面・沙羅谷面(四谷面)・骨若面(七骨若面)・玉谷面・津上面・津下面・月浦面・多鴨面・七星面・仁徳面・内面・玉龍面
- 1869年(高宗6年)と1889年(高宗26年)に2回の農民蜂起が発生。
- 1894年 - 東学党運動で光陽県内には多くの東学教徒が逮捕・殺害された。
- 1895年6月23日(陰暦閏5月1日) - 二十三府制による行政区域再編で、県制が廃止されるため、光陽郡に昇格し、南原府の管轄となる。[2]
- 1896年
近代・現代
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朝鮮総督府令第111号 |
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光陽郡四谷面、牛蔵面、七星面 | 光陽面 |
光陽郡骨若面 | 骨若面 |
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光陽郡津下面、月浦面 | 津月面 |
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- 光陽面・鳳岡面・仁徳面・玉龍面・骨若面・玉谷面・津上面・多鴨面・津月面
大東地誌・光陽沿革條(金正浩編、1864年)地方沿革研究p274(1988)/光陽郡誌p344(1983)
勅令第98号・地方制度改正件(1895年陰暦5月26日) 勅令第36号・地方制度官制改正件(1896年8月4日)
現在の光陽邑徳礼里・道月里・世豊里・仁東里・仁西里
大統領令第162号・邑の設置に関する件(1949年8月13日)
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