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于 芷山(う しざん)は、中華民国・満州国の軍人。当初は北京政府奉天派の軍人で、後に満州国で要職を務めた。名は世文だが、号の芷山で知られる。字は瀾波。
若年時代は緑林の一味として活動していた。1903年(光緒29年)に清朝に投降して、以後清朝の軍人として経歴を重ねる。1914年(民国3年)4月、東三省講武堂に入学した。1920年(民国9年)2月、歩兵上校団長に任ぜられている[2]。
1922年(民国11年)、東三省陸軍第5混成旅旅長となった。1924年(民国13年)、東北独立騎兵第8旅旅長となり、張作霖の衛隊司令をつとめた。1925年(民国14年)、郭松齢討伐の軍功により師長に昇進している。1927年(民国16年)6月、張の侍従武官長となり、陸軍中将位を授与された[3]。10月、于芷山は第5方面軍第30軍軍長として山西省北部の閻錫山を攻撃し、勝利した[2][4]。
翌1928年(民国17年)になると中国国民党の北伐軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に関東軍に爆殺された(張作霖爆殺事件)。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于芷山は張学良の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している[2][4]。
満州事変後の1931年(民国20年)10月15日、于芷山は「東辺(道)保安司令」を自称、中華民国からの独立を宣言した[5]。満州国成立後の翌1932年(大同元年)3月14日、奉天省警備司令官に任命された[6]。1934年(康徳元年)7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌1935年(康徳2年)には陸軍上将に昇進した[4]。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ[7]、1937年(康徳4年)7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった[8]。1939年(康徳6年)4月24日、治安部大臣を退任して参議府参議に転じる[9]。1942年(康徳9年)9月28日に参議を辞任し[10]、翌29日に張海鵬・于琛澂と共に軍事諮議官に任命された[11]。
満州国崩壊後は北平に隠れ住んでいたが、1949年10月の中華人民共和国成立後に逮捕された。1951年5月、撫順戦犯管理所内で病没[4][12]。享年70。
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