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中奥小姓(なかおくこしょう)は、江戸幕府の役職のひとつ。若年寄支配、持高勤(役料なし)で、就任者が従五位下に任命される諸大夫役[1]。
名称に「中奥」や「小姓」とついているが、主に殿中の儀礼をつかさどる表の役人であり、中奥(奥)で将軍に近侍することはない[2]。深井雅海によれば、殿中における儀式の場である表にある3つの広間(大広間、白書院、黒書院)のうち、将軍が日常生活を送る奥向きの御座の間に最も近い黒書院が徳川家光期の寛永年間頃まで「中奥」または「中奥書院」と称して将軍の日常的な政務に用いられており、そこでの用務に服していたことから中奥小姓の名が生じたと考えられる。家光晩年から将軍政務は黒書院ではなく御座の間で行われるようになって将軍の黒書院への日常的な出御がなくなり、また御座の間に対する黒書院ではなく大奥に対する御座の間が「中奥」と通称されるようになったため、名称と実態の乖離が生じた[3]。
寛永9年(1632年)、同年に亡くなった大御所徳川秀忠付きの小姓であった譜代大名庶子の土屋之直、滝川利貞ら6人を任命したことに始まる[4]。次第に増員され、延宝2年(1674年)には27人、幕末には約40人おり、6番に分かれて交代勤務していた[1]。
職掌は将軍の外出時に供奉することを主とし[2]、江戸城御殿の表において儀礼の際に簾を持ち上げたり、灯りを点じたり、役人に与えられる品を配置したり、年始等の宴席において給仕をしたりすることであった。従って、儀礼の日には総出で当たったが、平日には詰所に待機するだけで老中・若年寄の登城・下城時の廻りに際して祗候席である山吹の間(黒書院の隣にある部屋)で出迎える以外に仕事がなかった[1]。このため、出勤しても弁当を食べて自宅に帰るだけの閑職と見られていた[2]。
格式だけは高く、両番(書院番・小姓組)や中奥番を務めた上級の旗本のうちでも高禄な者が任命されるか、3000石以上の無役の寄合から直接任命された。この職の後には御側小姓、五番方の番頭、持頭などに出世することができた[1]。
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