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中原 呉郎(なかはら ごろう、1916年〈大正5年〉7月31日 - 1975年〈昭和50年〉6月12日)は、日本の医師。
中原謙助、フクの六人兄弟の五男として生まれる。1924年頃、弟の拾郎にハーモニカを教える。
1938年3月に山口高等学校を卒業して、4月に長崎医科大学に入学した。
1942年1月13日、医師免許証を取得し、同月20日に短期現役軍医として入隊する。
1946年、中原医院の事務員となる。
1955年には国立療養所多磨全生園厚生技官となる。1959年に整形外科医長に就任した。はにかに屋で大酒飲みだったが、深酒した翌日も絶対に休診することはなかったとされる。入所者や職員からは「呉郎ちゃん先生」と言われ、親しまれていた。
1975年6月12日、肝硬変により南多摩病院で死去(満58歳没)。
呉郎は肋膜炎に罹患していた山口中学校の2年間に文学作品を読みふけり、在校時に雑誌『詩園』を仲間たちと創刊したり、友人とともに中也の年表を発表している。
長崎医科大学時代には、詩集『煙の歌』を刊行した。
「中原中也の弟」と見られるようになった呉郎は腹が立ちしだいに詩作から離れて、中也や中原一族、種田山頭火の評論やエッセイ、小説などを書くようになった。
この他に次兄に亜郎がいたが、呉郎が生まれる前に病死している
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