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オーストリア帝国の構成国 ウィキペディアから
ロンバルド=ヴェネト王国(ロンバルド=ヴェネトおうこく、イタリア語: Regno Lombardo-Veneto、ドイツ語: Königreich Lombardo-Venetien)は、19世紀の北イタリアに存在し、オーストリア帝国(ハプスブルク君主国)の構成国であった王国である。
公用語 | イタリア語、ドイツ語 | ||||||||||||||||||||||
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言語 | 西ロンバルド語、ヴェネツィア語、フリウリ語 | ||||||||||||||||||||||
宗教 | カトリック | ||||||||||||||||||||||
首都 | ミラノ(1815年 - 1859年) ヴェネツィア(1859年 - 1866年) | ||||||||||||||||||||||
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現在 | イタリア |
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1815年 - 1866年 | → → |
(国旗) | (国章) |
ウィーン会議により1815年6月9日に公式に成立し、ミラノ公兼マントヴァ公であったオーストリア皇帝フランツ1世がロンバルド=ヴェネト王フランチェスコ1世となった(在位:1815年 - 1835年)。それ以後もオーストリア皇帝が国王を兼ねた。
フェルディナンド1世(皇帝フェルディナント1世)統治時代の1848年3月22日、ミラノの5日間の蜂起の後、ミラノのオーストリア人は捕らえられ、ロンバルディア臨時政府の成立が宣言された。ヴェネツィアでも同年3月23日に反オーストリア勢力の蜂起が起こり、ヴェネツィア臨時政府の成立が宣言された。しかし、同年7月24-25日にクストーザでサルデーニャ王国軍に対してオーストリア軍が勝利した後、8月6日にミラノは再占領され、ロンバルディア臨時政府は解散させられた。翌1849年8月24日には、ヴェネツィアもオーストリアに降服し、ヴェネツィア臨時政府も解散させられた。
ロンバルド=ヴェネト王国は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のイタリア独立戦争時代の1859年、第二次イタリア独立戦争の際にロンバルディアがサルデーニャ王国に占領され、1861年にロンバルディアはイタリア王国の一部として併合、1866年の普墺戦争に介入した第三次イタリア独立戦争でヴェーネトが併合されるまで続いた。
王 | 副王/総督 | ||
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フランチェスコ1世 | 1814年–1835年 | ハインリヒ・レウス・プラウエン総督 | 1814年–1815年 |
ハインリヒ・ヨハン・ベルギャルド総督 | 1815年–1816年 | ||
アントニオ・ヴィットーリオ副王 | 1816年–1818年 | ||
ラニエーリ・ダズブルゴ副王 | 1818年–1835年 | ||
フェルディナンド1世 | 1835年–1848年 | ラニエーリ・ダズブルゴ副王 | 1835年–1848年 |
フランチェスコ・ジュゼッペ1世 | 1848年–1859年 | ヨーゼフ・ラデツキー副王 | 1848年–1857年 |
マッシミリアーノ1世・ダズブルゴ副王 | 1857年–1859年 | ||
フェレンツ・ジュライ副王 | 1859年 | ||
ハインリヒ・ヘルマン・フォン・ヘス副王 | 1859年 |
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