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メッカ包囲戦 (692年)
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692年のメッカ包囲戦(メッカほういせん)は、ウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルが本拠地としていたイスラームの聖地メッカをアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)が率いるウマイヤ朝軍が占領し、イスラーム世界の第二次内乱を終結させた戦いである。
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683年にウマイヤ朝のカリフのヤズィード1世(在位:680年 - 683年)が死去したのち、アブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルがイスラーム国家のほとんどの地域でカリフとして認められた。その一方で第一次内乱(英語版)後にイスラーム国家を統治していたウマイヤ朝は本拠地であるシリアの一部にまで勢力範囲が縮小していた。このような状況の中、ウマイヤ朝支持派の部族は684年にマルワーン1世をカリフとして選出した。翌685年にマルワーン1世は死去し、その息子で後継者のアブドゥルマリクがウマイヤ朝の支配を再確立する役目を担うことになった。
691年までにシリアとイラクの敵対者を倒したのち、アブドゥルマリクはイブン・アッ=ズバイルの本拠地であるメッカを制圧するために将軍のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフを派遣した。メッカの聖域での流血を避けるために、ハッジャージュは都市を包囲して物資を遮断するように命じられていた。包囲は692年3月に始まり、6か月から7か月にわたって続いた。都市はカタパルトによる砲撃を受け、物資が遮断されたためにイブン・アッ=ズバイルの追随者の大規模な投降が発生した。イブン・アッ=ズバイルは692年10月もしくは11月に残りわずかとなった支持者とともに打って出たものの、戦闘で殺害された。
メッカの占領は12年に及んだ内乱に終止符を打ち、イスラーム国家はウマイヤ朝とアブドゥルマリクのもとで再統一された。砲撃による被害を受けたカアバは、イスラームの預言者ムハンマドの時代の設計に従って再建された。