ムージャン
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ムージャン (オック語プロヴァンス方言:Mougins、オック語古典表記:Mogins、オック語ミストラル方言:Mougin、ラテン語Muginis[1])は、フランス、プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏、アルプ=マリティーム県のコミューン。
Mougins | |
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| |
行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏 |
県 (département) | アルプ=マリティーム県 |
郡 (arrondissement) | グラース郡 |
小郡 (canton) | ムージャン小郡 |
INSEEコード | 06085 |
郵便番号 | 06250 |
市長(任期) |
リシャール・ギャリ (2008年 - 2014年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Pays de Lérins |
人口動態 | |
人口 |
18 917人 (2010年) |
人口密度 | 738人/km2 |
住民の呼称 | Mouginois |
地理 | |
座標 | 北緯43度36分02秒 東経6度59分39秒 |
標高 |
平均:m 最低:32 m 最高:269 m |
面積 | 25.64km2 |
公式サイト | mougins.fr |
ムージャンには、ビリオネアやショウビズ界のスターなどが別荘・ヴィッラを多く構えている。また画廊や高級レストラン、古い石造りの邸宅があり、数多くのヴィッラがあることから、庭園の町(ville-jardin)との別名を持つ。日刊紙エクスプレスは、ムージャンを「コート・ダジュールのヌイイ」(Neuilly de la Côte-d'Azur)であるとする。高級住宅地であるヌイイにムージャンをなぞらえたのは、多くのセレブリティーや資産家が町に住んでいるからである[2]。
コミューンはまた、ソフィア・アンティポリスの一部となっている。
ムージャンは地中海からおよそ6km離れている。カンヌとル・カネの北、グラースの南にある。カンヌ、グラース、グルノーブル間をつなぎ、別名ルート・ナポレオンと呼ばれる国道85号線が通っている。ヴァルボンヌ、ビオット、アンティーブ、ヴァロリスとともにソフィア・アンティポリスを構成しており、その面積の約18%がムージャンに属している。
ニース・コートダジュール空港から約30分の距離である。カンヌ駅からは15分以内に到着する。自動車の場合はオートルート A8の42番、カンヌ-ムージャン・インターチェンジで下りる。インターチェンジにあるリベラシオン・ラウンドアバウトには、有名なVサインを掲げるウィンストン・チャーチルの像が立ち、周りをトリコロール旗、星条旗、ユニオンジャックが囲んでいる。
地中海性気候である。春と秋に降雨が集中する。夏は熱く晴天が多い。冬は温暖で乾燥している。
ムージャンに最も多い樹木はマツとカシである。コニファー類も多い。ムージャンの植生は東と西に集中する。コミューン面積のほぼ50%が緑地である。
ムージャンとはラテン語のMons AegitnaまたはMons Ignis(火の山)に由来する[3]。古いムージャンの村落は階段状である。
ムージャンには古代から人が定住していた。地元の言い伝えでは、ローマ帝国時代のムージャンにはユリア・アウグスタ街道(ローマからプロヴァンスを経由してスペインへ向かう)の中継ポイントがあった。現在の研究で、このローマ街道のルートは海岸沿いのほぼ国道7号線に従っていることがわかっている。
コミューン最古の定住地の痕跡は、新石器時代後期から銅器時代にさかのぼるようである。ブレギエールの洞窟がそれを裏付けている。カンヌ地方のアマチュア考古学者モーリス・セシュテールによって1970年代に発掘されたブレギエール洞窟は、時間がなく、適切に調査されなかった。そこには40人の遺骨を納めた石の道具やセラミックがあった。
ローマ時代には少なくとも3箇所の定住地があったことがわかっている。1つはギレ(Guillet)という農村で、オリーブやワインを作っていた。少なくとも1世紀から4世紀までの間あった。この一帯に多く見られるローマ時代の集落と同じく、鉄器時代の終わりにできた定住地、おそらく紀元前3世紀からある定住地をローマが引き継いでいた[4] · [5]。ボルド(Borde)またはカリマイ(Carimaï)は、1世紀から3世紀の間に存在した。発祥は鉄器時代後期に遡ることができる。重要な古代のネクロポリスがある[6]。キュロー(Cureau)はムアン=サルトゥーとの境界付近にあり、特に古代の青銅像や古代末期の多くの陶磁器が見つかっている[7]。
丘に腰掛けたような古いムージャン集落は、中世に生まれた。11世紀、アンティーブ伯がムージャンをレランス修道院へ与え、修道院はフランス革命までムージャンの領主だった。中世に要塞化された町となり、後にプロヴァンス王ルネによって、フランス王国、レランス修道院、グラース司教のそれぞれを領主とあおぐ3地域に分割された。ムージャンの丘や壁を防衛する設備のおかげで、地元の対立や16世紀の戦争において多くの他の村よりも被害が少なくて済んだ。
オーストリア継承戦争では、ムージャンはオーストリア=サルデーニャ連合軍によって火を放たれ、略奪され荒廃した。ムージャンを占領していたオーストリア=サルデーニャ連合軍はベリール元帥が指揮するフランス軍によって追われ、聖ベルナルダン礼拝堂はロワイヤル・コントワ病院となった。
1854年、ムージャンの土地400ヘクタールあまりがカンヌに割譲された[8]。
ムージャンがコート・ダジュールの観光と芸術の町となっていったのは、20世紀半ばからである。
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2010年 |
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5274 | 6346 | 8492 | 10197 | 13014 | 16051 | 19361 | 18917 |
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