マルティニ・ヘンリー銃
イギリスで開発された銃の一種 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
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マルティニ・ヘンリー銃(マルティニ・ヘンリーじゅう、英:Martini-Henry)は、イギリスで採用された後装式・レバー作動方式の小銃である。作動にはフリードリッヒ・フォン・マルティニ(ドイツ語版)の設計(特定箇所や、基本形状がヘンリー・O・ピーボディ(英語版)の開発したピーボディ銃(ドイツ語版)と類似しているとして、しばしば指摘されている)が加えられ、施条の入った銃身の設計は、銃匠であるスコッツマン・アレクサンダー・ヘンリー(英語版)が行った。この銃が軍務に就いたのは1871年のことで、スナイダー・エンフィールド銃と代替された。また派生型は30年間を通じてイギリス帝国に用いられた。本銃は、金属製薬莢を採用した真の後装式としては、最初のイギリス軍制式小銃であった。
マルティニ・ヘンリー Mk.1 小銃 | |
マルティニ・ヘンリー Mk.1~4 | |
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種類 | 軍用小銃 |
製造国 | イギリス |
設計・製造 | 王立小火器工廠 |
年代 | 19世紀 |
仕様 | |
種別 | 後装式小銃 |
口径 | 11.6mm(0.455インチ) |
使用弾薬 | .577/450マルティニ・ヘンリー弾 |
装弾数 | 1発 |
作動方式 | フォーリングブロック・アクション方式 |
全長 | 1245mm(49インチ) |
重量 | 3.827kg |
発射速度 | 12発/分 |
銃口初速 | 380m/秒 |
最大射程 | 1900ヤード (約1700m) |
有効射程 | 400ヤード (約370m) |
歴史 | |
設計年 | 1870年 |
製造期間 | 1871年 - 1891年 |
配備期間 | 1871年 - 1888年 |
配備先 | イギリス帝国とその植民地、アフガニスタン首長国、エジプト・スルターン国、セルビア王国、トランスヴァール共和国、ネパール王国、ルーマニア公国 |
関連戦争・紛争 | イギリス植民地戦争、第二次アフガン戦争、第二次エジプト=イギリス戦争(英語版)、ズールー戦争、ボーア戦争、マフディー戦争、第一次世界大戦 |
バリエーション |
マルティニ・ヘンリー カービン グリーナー警察用散弾銃 |
製造数 | 約50万~100万挺 |
テンプレートを表示 |
マルティニ・ヘンリー銃には4つの形式が存在する。マークI(1871年6月開発)、マークII、マークIII、マークIVである。また、1877年には派生型の一つにカービン銃が存在し、これはガリソン砲兵用カービン銃として分類される砲兵用カービン(マークI、マークII、マークIII)であり、またより小型の派生型が陸軍士官学校の訓練用小銃として設計された。マルティニ・ヘンリー小銃のマークIVは1889年に生産終了した。しかし、大英帝国における軍務での使用は第一次世界大戦の終結まで続き、アフガニスタンでは、少数が部族民の手によりソ連のアフガン侵攻に対して使用されている他、アフガニスタン紛争でも2010年後半から2011年にかけてはアメリカ海兵隊やアメリカ陸軍第101空挺師団が、ヘルマンド州マルジャー(英語版)近郊でのターリバーンとの戦闘(モシュタラク作戦(英語版))で数度に渡りマルティニ・ヘンリー銃を鹵獲した[1]。
マルティニ・ヘンリー銃は、パキスタン北西辺境州の銃器製作者たちによって大規模に複製された。彼らの製作した兵器は、エンフィールド王立小火器工廠と比較して製造品質は低かったが、プルーフ・マーク(英語版)などの品質刻印なども含めた刻印類まで正確に複製されていた。主な製作者たちはダッラ・アダム・ケール(英語版)在住のアフリディ族(英語版)である。彼らはカイバル峠の周辺に居住していた。このため、イギリスの言葉でこのような兵器はPass made rifles(峠製の銃(英語版))と呼ばれた。カイバル峠で密造されるマルティニ・ヘンリー銃の中には、拳銃型のものさえ存在しており、骨董品と見紛いかねない精巧な「老化」仕上げと、真正の英国製制式小銃(英語版)より正確に写し取られた刻印が巧妙に配置されていることから、国際治安支援部隊に参加している兵士(主にウォー・トロフィー(英語版)に対する銃規制が緩いアメリカ軍兵士)達の間では、珍しい骨董品と誤認して母国に持参するものも少なくないという。アンティーク銃器を専門に取り扱う米国のロック・アイランド・オークション社にも何度かこのような"マルティニ・ヘンリー拳銃"が持ち込まれた事があるが、同社の鑑定士たちは「観光土産の為に非常に高度な複製技術力を駆使し、実際の使用を意図していない、ある意味馬鹿馬鹿しいジャンク品を造っている一例」と評している[2]。