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フランスの女優(1900-1994) ウィキペディアから
マドレーヌ・ルノー(Madeleine Renaud、1900年2月21日 - 1994年9月23日)はフランスの女優。コメディ・フランセーズ、ルノー・バロー劇団、および、映画で活躍した。
パリに生まれた。本名リュシー・マドレーヌ・ルノー。中等教育を受けてのち、文学に興味を持ち、小説、戯曲などを書いた。フランス国立高等演劇学校(コンセルヴァトワール)に入り、ラファエル・デュフロのクラスで学んだ。同級にシャルル・ボワイエがいた。1920年の進級公演では、モリエールの『女房学校』のアニュス役で二等賞を得た。翌1921年の卒業公演では、マリー・ベルと一等賞をわかちあい、二人揃ってコメディ・フランセーズに入座した。
1923年、同座の幹部俳優シャルル・グランヴァル(Charles Granval)と結婚し、間もなく離婚したが、1男ジャン=ピエール・グランヴァル(Jean-Pierre Granval)を得た。1926年、ミュッセの『若い娘は何を夢みるか』を、マリー・ベルと主演した。
1936年封切の映画、『美しき青春』(Hélène)で共演した在野の若手俳優ジャン=ルイ・バローと、1940年頃結婚した。1944年、ナチスがパリを撤退した後、コメディ・フランセーズの運営委員会委員となった。
1946年、バローと共に同座を去って、『ルノー=バロー劇団』(la compagnie Renaud-Barrault)を結成し、マリニー劇場(Théâtre Marigny)を本拠とした。1959年、時の文化相アンドレ・マルローの要請により、バローはオデオン座の支配人となり、劇団も転入したが、1968年、五月革命の学生らに劇場の占拠を許した廉で、オデオン座を追われ、エリゼ・モンマルトル劇場(Élysée Montmartre)、オルセー駅構内の仮小屋など転々としたのち、1981年、ロン・ポワン劇場(Théâtre du Rond-Point)に落着いた。
ルノー=バロー劇団は外国公演も行い、日本には、1960年、1977年、1979年の3回、来演した。1977年、1979年の来日時には、息子のジャン=ピエール・グランヴァルを、演出家として帯同した。
1994年9月、夫ジャン=ルイ・バロー没の8ヶ月後、パリ北西郊のヌイイ=シュル=セーヌで死去した(94歳)。二人でパッシー墓地に眠っている。
1922年以降、40本近い映画に出演した。
コメディ・フランセーズ時代には、127の役を演じたという。
その後も含めた演目は、以下の例示のように、古典から前衛にまで及んだ。
シェイクスピアの『ハムレット』/モリエールの『人間嫌い』/マリヴォー(Pierre Carlet de Chamblain de Marivaux)、『偽りの告白』/ミュッセの『若い娘は何を夢みるか』『当て馬』/ポール・クローデル、『繻子の靴』(縮小版)『黄金の頭』/ジロドゥ:『雅歌』『リュクレースのために』/ピエール・レストランゲス(Pierre Lestringuez)の『三色旗』(Tricolore)/カフカの『審判』/モンテルラン(Henry de Montherlant)の『死せる女王』(La Reine morte )/アルマン・サラクルーの『怒りの夜』/サミュエル・ベケットの『幸福な日々』(Oh les beaux jours)/ジャン・ジュネの『屏風』/マルグリット・デュラスの『サヴァナ・ベイ』(Savannah Bay)『木立の中の日々』『ヴィオルヌの犯罪』(L'amante anglaise)/フランソワ・ビエドゥー(François Billetdoux)の『曇天のあと』/ヒギンズ(Colin Higgins)の「ハロルドとモード」(Harold et Maud)原作の映画の日本タイトル「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」
前の数字は初公開の、後の数字は日本公開の西暦年次である。
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