ピエール・ボスト
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ピエール・ボスト(Pierre Bost、1901年1月26日 ラザール - 1975年12月9日 パリ)は、フランスの小説家、ジャーナリスト、劇作家、脚本家である。ジャン・オーランシュとの脚本コンビ「オーランシュ=ボスト」として多くの作品を残したことで知られる。
1901年1月26日、フランス・ガール県ラザールに生まれる。
喜劇『L'Imbécile』を書き、ヴィユ・コロンビエ劇場でデビュー、つづいて同題でノヴェライズした。
1939年から映画界に入り、アルベール・ヴァランタン監督の『L'Héritier des Mondésir』で脚本家としてデビューする。ひと足先に映画脚本家としてデビューしていたジャン・オーランシュとはそのときからのコンビである。1940年代初頭、たいへん多くの映画脚本やダイアローグを書き、彼の「共犯者オーランシュ」とはほとんどの作品でコンビを組んでおり、クロード・オータン=ララ監督の『パリ横断』(1956年)や『青い女馬』(1959年)、ミシェル・ボワロン監督の『学生たちの道』(1959年)などはいまも傑作たりつづけている。オータン=ララ、ルネ・クレマン、ジャン・ドラノワ監督との作品を多く残した。
1954年、まだ21歳であり、映画批評を書き始めたばかりのシネフィル、フランソワ・トリュフォーが、『カイエ・デュ・シネマ』1月号誌上に『フランス映画のある種の傾向』という攻撃的な論文を発表、「オーランシュ=ボスト」の脚本コンビは、「作家の映画」と相容れない「良質の伝統」の推進者として、そこで徹底的に批判された。トリュフォーは「フランス映画の墓掘り人」と呼ばれたが、同論文がその後のヌーヴェルヴァーグの流れを生んだ。
その後も「オーランシュ=ボスト」は健筆を揮い、1958年には、ブリジット・バルドーとロジェ・ヴァディムを世に出した天才肌の若手プロデューサーラウール・レヴィに起用され、バルドー主演の『可愛い悪魔』の脚本を書き、1966年には、クレマン監督の『パリは燃えているか』の脚本を、アメリカの小説家ゴア・ヴィダルやデビュー直後の新進映画監督フランシス・フォード・コッポラとの共同作業で完成させ、1973年には、ボストの40歳下の若手監督ベルトラン・タヴェルニエの長篇第一作『サン・ポールの時計屋』を手がけ、同作は同年の最優秀作品に贈られるルイ・デリュック賞を獲得するにいたる。
1975年12月9日、パリで死去。74歳没。生前最後の作品となったタヴェルニエ監督の『判事と殺人者』(1975年)も「オーランシュ=ボスト」コンビによるものだった。同作は翌1976年3月10日にフランスで公開された。
ボストの没後、9年経ってから、タヴェルニエ監督は映画『田舎の日曜日』(1984年)に、ボストの小説『Monsieur Ladmiral va bientôt mourir(ラドミラル氏はもうすぐ死ぬ)』を原作にした。同作の全編にわたるすべてのシーンにナレーションで語られたテクストは、同小説からの引用である。同小説は、2005年再版されて、ガリマール出版社の「L'imaginaire」コレクションに収録された。
没後の作品
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