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バイアム・ショーとして知られるジョン・バイアム・リストン・ショー(John Byam Liston Shaw、1872年11月13日 - 1919年1月26日)は、イギリスの画家、イラストレーターである。ラファエル前派のスタイルの作品を描いた。風景画家のレクス・ヴァイキャット・コールと共に、美術学校(Byam Shaw and Vicat Cole School of Art)を設立した。この学校はショーの没後も2003年にロンドン芸術大学のセントラル・セント・マーチンズに統合されるまでバイアム・ショー美術学校(Byam Shaw School of Art)として活動を続けた。
インドのチェンナイ(マドラス)で名門一族出身の植民地政府高官の息子に生まれた[1]。1878年に家族とイギリスに帰国した。芸術的才能を示し、15歳になった時に作品を見てもらった画家のジョン・エヴァレット・ミレーに勧められて、ロンドンの私立の美術学校、St John's Wood Art Schoolに入学した[2]。美術学校ではジェラルド・フェンウィック・メトカルフェ(Gerald Fenwick Metcalfe)やレクス・ヴァイキャット・コール(Rex Vicat Cole)といった画家たちと友人になり、後に結婚することになるエブリン・パイク=ノット(Evelyn Pyke-Nott)とも知り合った。1890年からはロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校で学び、アミテージ賞を受賞した[3]。1899年にエブリン・パイク=ノットと結婚した[4] 。
ラファエル前派の影響を受けた作品を描き、ロセッティの詩などを題材に作品を描き[5] 、ロンドンの画廊で何度か個展を開いた[5]。エドガー・アラン・ポーの小説や少年向けの書籍などの挿絵も描いた。1904年からキングス・カレッジ・ロンドンで絵を教え始め[3]、1910年に友人のレクス・ヴァイキャット・コールとともに美術学校(Byam Shaw and Vicat Cole School of Art)を設立した[6]。後にこの学校はバイアム・ショー美術学校(Byam Shaw School of Art)と呼ばれ、2003年にロンドン芸術大学のセントラル・セント・マーチンズに統合されるまで活動した。この学校では妻のエブリンや、友人の画家、イラストレーターのエリナー・フォーテスキュー=ブリックデイルも教えた[7]。
第一次世界大戦中は芸術家の戦争協力部隊「Artists Rifles」に参加した。1919年にスペインかぜの流行の犠牲となり、46歳で没した[2]。
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