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ハーズィルの戦い
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ハーズィルの戦い(ハーズィルのたたかい、アラビア語: يوم الخازر, ラテン文字転写: Yawm Khāzir)は、686年8月に当時イラクの大半を支配下に収めていたアリー家支持派[注 1]の軍隊とウマイヤ朝軍の間で行われた戦闘である。戦闘はイラクのモースルの東方を流れるハーズィル川(英語版)のほとりで起こった。
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この戦いは、シリアを拠点とするウマイヤ朝のカリフのアブドゥルマリクとイラクのクーファを拠点とするアリー家支持派の指導者のムフタール・アッ=サカフィー、そしてメッカを拠点にウマイヤ朝に対抗してカリフを称したアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの三者の間で争われていた第二次内乱期のイラクの支配権をめぐる戦いの一つである。
683年にウマイヤ朝のカリフのヤズィード1世が死去すると、ウマイヤ朝の支配に異議を唱えていたアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルがメッカを本拠地としてカリフを称し、イスラーム国家のほとんどの地域からその支配権を認められた。しかし、ウマイヤ朝はマルワーン1世の即位後に体制を立て直し、以前にアリー家支持派と対立してイラクの総督の地位を追われていたウバイドゥッラー・ブン・ズィヤード(英語版)をイラクの再征服のために派遣した。これに対してイラクのクーファの支配権を握ってアリー家支持派の指導者となっていたムフタール・アッ=サカフィーが、主にペルシア人のマワーリーで構成されたイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルの率いる軍隊をウマイヤ朝軍の侵攻を阻止するために派遣した。両軍はモースルの東方を流れるハーズィル川のほとりで激突し、戦闘はアリー家支持派の勝利に終わった。ウマイヤ朝軍はウバイドゥッラー・ブン・ズィヤードを始めとする多くの指揮官が戦死し、敗走した兵士の多くもハーズィル川で溺死した。
イラクの支配権の奪回を目指していたウマイヤ朝にとってこの敗北は大きな挫折となり、さらには戦いの後にウマイヤ朝を支持する部族連合のヤマン族(英語版)と、これに敵対する部族連合のカイス族(英語版)の間の抗争が激化した。一方で勝利したムフタールの優位も長くは続かず、ムフタールは戦いの1年後にアブドゥッラー・ブン・アッ=ズバイルの弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)に敗れて殺害された。ウマイヤ朝は691年になって再びイラクの再征服に向けた軍事行動を起こし、マスキンの戦いでムスアブ・ブン・アッ=ズバイルを破ってイラクの支配を回復することに成功した。