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第5代ラトランド公爵ジョン・ヘンリー・マナーズ(英語: John Henry Manners, 5th Duke of Rutland KG、1778年1月4日 – 1857年1月20日)は、イギリスの貴族。1779年から1787年までグランビー侯爵の儀礼称号を使用した[1]。
第4代ラトランド公爵チャールズ・マナーズとメアリー・イザベラ・サマセット(Mary Isabella Somerset、1756年8月1日 – 1831年9月2日、第4代ボーフォート公爵チャールズ・サマセットの娘)の長男として、1778年1月4日にナイツブリッジで生まれ、2月9日にウェストミンスターの聖マーガレット教会で洗礼を受けた[1]。1787年10月24日に父が死去すると、ラトランド公爵位を継承した[1]。ハーロー校で教育を受けた後、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進学、1797年にM.A.の学位を修得した[1]。
1799年から1857年までレスターシャー統監を務めたほか、1799年から1800年までケンブリッジ市裁判所判事(Recorder of Cambridge)を務め、スカーバラとグランサムの市裁判所判事を務めた時期もあった[1]。
1803年11月25日、ガーター勲章を授与された[1]。1815年から1857年まで大英博物館理事の1人を務めた[1]。
1821年7月19日のジョージ4世戴冠式では王笏を持つ役割を果たした[1]。
ベンジャミン・ディズレーリの政治小説『カニングズビー』の登場人物「ボーマノワール公爵」(Duke of Beaumanoir)は第5代ラトランド公爵がモデルであるとされる[2]。
1857年1月20日にビーヴァー城で死去、29日に同地で埋葬された[1]。息子チャールズ・セシル・ジョンが爵位を継承した[1]。
1799年4月22日、エリザベス・ハワード(1780年 – 1825年、第5代カーライル伯爵フレデリック・ハワードの娘)と結婚[1]、5男4女をもうけた[3]。
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