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ブラジルのサッカー選手 ウィキペディアから
カフー(Cafu)ことマルコス・エバンジェリスタ・デ・モラエス(Marcos Evangelista de Moraes, 1970年6月7日 - )は、ブラジル・サンパウロ州サンパウロ出身の元サッカー選手。元ブラジル代表。現役時代のポジションはディフェンダー。
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2019年のカフー | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
マルコス・エバンジェリスタ・デ・モラエス Marcos Evangelista de Moraes | |||||
愛称 |
il Pendolino 右サイドの支配者 | |||||
ラテン文字 | Cafu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
ブラジル イタリア | |||||
生年月日 | 1970年6月7日(54歳) | |||||
出身地 | サンパウロ | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF(RSB) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1988-1990 | サンパウロ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1990-1994 | サンパウロ | 117 | (7) | |||
1994-1995 | サラゴサ | 16 | (0) | |||
1995 | ジュヴェントゥージ | 2 | (0) | |||
1995-1997 | パルメイラス | 35 | (0) | |||
1997-2003 | ローマ | 163 | (5) | |||
2003-2008 | ミラン | 119 | (4) | |||
通算 | 452 | (16) | ||||
代表歴 | ||||||
1990-2006[1] | ブラジル | 142 | (5) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2009年6月16日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
「カフー」はニックネームで、1970年代に活躍したカフリンガ (Cafuringa) という名前のサッカー選手に由来する。長らく活躍したイタリアでは特急列車を意味する「イル・ペンドリーノ(il Pendolino)」という異名で呼ばれたこともあった[2]。史上最高の右サイドバックとも評され、2020年に右サイドバックの歴代1位としてバロンドール・ドリームチームに選出された[3]。
7歳の頃にはナショナル・アトレチコ・クルーベでプレーしていた[4]。1983年から1987年にかけて、SEパルメイラス、サンパウロFC、コリンチャンスなどのトライアウトで9回連続不合格になった[4]。 1988年、18歳の時、サンパウロFCのプリマベーラとの試合で活躍、これが目に留まり、サンパウロの下部組織に入団した[4]。入団後にサイドバックにコンバートされ、1989年にトップデビューを果たした[4]。1992年、トヨタカップでは、FCバルセロナを破り優勝、1993年、トヨタカップのACミラン戦ではパリ―ニャの先制ゴールをアシストし[5]、大会連覇に貢献するなど活躍した。1994年、レアル・サラゴサに優勝への切り札と期待されて移籍するも[6]、攻撃を警戒され、対戦チームに厳しくマークされ[6]、加入後出場した数試合でチームは勝利出来ないなど[6]、レアル・サラゴサでは目立つ活躍が出来ず、1年で退団し、再び地元ブラジルに帰国し、SEパルメイラスに移籍することになる。
1997年、イタリア・セリエAの強豪ASローマに移籍。すぐに適応し、キープレーヤーの一人になり、ファンからペンドリーノ(右サイドの支配者)というニックネームを付けられた[4]。1998年4月11日のインテル戦でセリエA初得点を決めた[4]。2000-01シーズンには、ASローマの18年ぶりとなるスクデット制覇に貢献するなど主力として活躍、218試合に出場8ゴールをあげた[2]。
33歳となった2003年夏にはASローマを退団し、Jリーグ・横浜F・マリノスへの入団合意が伝えられたが[7][8][9]、最終的には違約金を横浜FMに支払う形で、ACミランがカフーを獲得した[10]。ACミラン移籍後は右サイドバックのレギュラーとしていきなり2003-04シーズンのACミランのスクデットに貢献するなど、主力としての変わらぬ活躍を見せることになる。また、この年にペレの選んだ偉大なサッカー選手100人、「FIFA 100」に選ばれている。
2004-05シーズン、チャンピオンズリーグ決勝では、リヴァプールに延長PKで敗れた[4]。2006-07シーズン、チャンピオンズリーグ決勝では、出場機会は無かったものの、優勝を果たした[4]。2007-08シーズン、クラブワールドカップ決勝のボカ戦では、後半途中から出場、現役生活最後のタイトルを獲得した[4]。シーズン終了後、ACミランとの契約満了に伴い退団と同時に現役引退。2008年5月18日、現役最後の試合となった、ウディネーゼ戦で1得点を決めた[4]。
引退後は、指導者には転身せず、夫人と共にスポーツ代理店を経営するなど実業家となった。
1990年9月12日のスペイン戦で代表デビューを果たした[11]。その後の1994年のワールドカップでは3試合に出場[11]、決勝のイタリア戦では、試合中のジョルジーニョの故障に伴い、途中交代で[12]、優勝に貢献した。以後、代表のレギュラーとしての地位を確立し、1998 FIFAワールドカップでは決勝で開催国フランスに敗れ連覇を逃したが、出場停止になったオランダ戦以外の6試合に出場、グループリーグ第2戦のモロッコ戦ではリバウドのゴールをアシストした[11]。
2002 FIFAワールドカップではキャプテンとして全試合に出場し、優勝に貢献した。
2006年のドイツ大会ではグループリーグ初戦のクロアチア戦でカカのゴールをアシスト[11]、ラウンド16のガーナ戦ではアドリアーノのゴールをアシストし[11]、準々決勝まで進むが、フランス戦で破れ敗退。
ドイツW杯後は、元ブラジル代表ドゥンガが代表監督に就任し、同監督の構想から外れたことや、年齢のこともあり、これ以後代表招集されることは無かった。
代表通算キャップ数は142を数えており、これはブラジル代表における歴代最多記録である。また、1994年、1998年、2002年、2006年の4度のFIFAワールドカップに出場しているが、このうち2006年を除く3回はいずれも決勝まで進んでおり(優勝2回、準優勝1回)、決勝戦の試合出場を3度経験した唯一の選手である。
サンパウロFC
ASローマ
ACミラン
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