イーモラ
イタリアの都市 ウィキペディアから
イタリアの都市 ウィキペディアから
イーモラ(伊: Imola)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、人口約69,000人の基礎自治体(コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネでもある。イモラとも表記される。
イーモラ Imola | |||||
---|---|---|---|---|---|
Duomo di Imola | |||||
| |||||
行政 | |||||
国 | イタリア | ||||
州 | エミリア=ロマーニャ | ||||
県/大都市 | ボローニャ | ||||
CAP(郵便番号) | 40026 | ||||
市外局番 | 0542 | ||||
ISTATコード | 037032 | ||||
識別コード | E289 | ||||
分離集落 | #分離集落参照 | ||||
隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 | ||||
公式サイト | リンク | ||||
人口 | |||||
人口 | 69298 人 (2023-01-01 [1]) | ||||
人口密度 | 338.1 人/km2 | ||||
文化 | |||||
住民の呼称 | imolesi | ||||
守護聖人 | San Cassiano [2] | ||||
祝祭日 | 8月13日 [2] | ||||
地理 | |||||
座標 | 北緯44度21分12秒 東経11度42分51秒 | ||||
標高 | 47 (7 - 323) [3] m | ||||
面積 | 204.96 [4] km2 | ||||
| |||||
ポータル イタリア |
都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァやチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1のエミリア・ロマーニャGPやサンマリノGPが行われたことで知られる。
標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。
ボローニャ県東部、サンテルノ川 (Santerno) のほとりに位置する都市である。フォルリの西北西約30km、州都・県都ボローニャの南南東約33km、ラヴェンナの西南西約40kmの距離にある。ロマーニャ地方に含まれる。
隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のFEはフェラーラ県、RAはラヴェンナ県所属を示す。
イーモラにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2292 GGである[5]。 また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 2 (sismicità media) に分類される[6]。
この都市はローマ時代の紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。
Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。
『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ(西ゴート王)とガッラ・プラキディア(ローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 – 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。
東ローマ帝国のラヴェンナ総督領を経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナ、ファエンツァ、ボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも Castrimolesi(Castro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。
1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)マギナルド・パガーニは、ボローニャの支配下にあったイーモラを占拠した。パガーニは1299年にポデスタ(首長)に選出され、1302年の死までその席にあった。
1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世 (Lippo II Alidosi) にpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。アリドシ家の支配は1424年まで続く。
1424年、ミラノの支配者フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに従うコンドッティエーレ(傭兵隊長) Angelo della Pergola が、イーモラの支配権を獲得した。1426年、イーモラは教皇領に戻り、教皇特使(のちに枢機卿となる)ドメニコ・カプラニカのもとで新政権が発足する。 その後イーモラは、ヴィスコンティ家などのさまざまなコンドッティエーレたちの支配下に置かれ、現在も残るいくつかの城砦が築かれている。1434年、1438年、1470年にはスフォルツァ家(1450年にミラノ公となる)に引き渡されている。
1473年、スフォルツァ家のカテリーナ・スフォルツァとジローラモ・リアーリオ(教皇シクストゥス4世の甥)が婚約した際、イーモラは教皇に引き渡され、ジローラモが教皇からイーモラの領主に任命された(なお、教皇のイーモラ政策は、メディチ家と教皇との対立の原因となり、フィレンツェにおけるパッツィ家の陰謀につながった)。カテリーナとジローラモは1477年に結婚する。フォルリとイーモラの領主となったリアーリオ家のもとで、イーモラに豪華な宮殿や芸術作品をもたらすことになった(たとえば大聖堂や、1488年にフォルリで殺害されたジローラモの墓所である)。
しかしながらリアーリオ家による支配は短く、ボルジア家出身の教皇アレクサンデル6世は、ジローラモの後継者であるオッタヴィアーノの地位を奪った。女傑として知られるカテリーナ・スフォルツァは抵抗を試みるが、1499年11月25日にイーモラはチェーザレ・ボルジアによって占領された。1502年にロマーニャ公爵に叙せられたチェーザレは、イーモラに本拠を移して要塞建築を計画した。当時チェーザレの軍事技術者であったレオナルド・ダ・ヴィンチは、チェーザレの命令を受けてイーモラの詳細な地図を描いている。
1503年、アレクサンドル6世の死とともにチェーザレ・ボルジアは失脚する。イーモラではガレアッツォ・リアーリオの派閥と教会の派閥が都市の支配を争い、教会派が勝利を収めた。1504年、イーモラは教皇ユリウス2世に寄進され、教皇領の一部となった。
1796年6月、フランス共和国軍はイーモラを占領した(フランス革命戦争参照)。フランス軍はいったん撤退するものの、1797年2月に再占領し、チスパダーナ共和国に編入した(のちチザルピーナ共和国に統合)。1799年、イーモラはオーストリアによって占領されるが、1800年にフランスによって奪回され、イーモラは再びチザルピーナ共和国に含まれることとなった。以後、イーモラはロマーニャ地方と歴史を共にすることになる。
イーモラには以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.