イブン・アル=アシュアス
ウマイヤ朝の軍事指導者 / ウィキペディア フリーな encyclopedia
アブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアス(アラビア語: عبد الرحمن بن محمد بن الأشعث, ラテン文字転写: ʿAbd al-Raḥmān b. Muḥammad b. al-Ashʿath, 704年没)、または祖父の名にちなんだ通称であるイブン・アル=アシュアス(アラビア語: ابن الأشعث, ラテン文字転写: Ibn al-Ashʿath)は、ウマイヤ朝時代の著名なアラブ人有力者の軍司令官であり、700年から703年にかけてイラク総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフ(英語版)に対する大規模な反乱を起こしたことで知られる人物である。
イブン・アル=アシュアス ابن الأشعث | |
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生誕 | 不明 |
死没 |
704年 ルッハジュ(英語版) |
所属組織 | ウマイヤ朝 |
戦闘 |
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親族 |
父: ムハンマド・ブン・アル=アシュアス・アル=キンディー(英語版) 母: ウンム・アムル・ビント・サイード・ブン・カイス・アル=ハムダーニー 祖父: アル=アシュアス・ブン・カイス(英語版) 大叔父: アブー・バクル |
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イブン・アル=アシュアスはイエメン東部のハドラマウトに起源を持つキンダ族の有力氏族の家系に生まれた。イスラーム世界の第二次内乱ではムフタール・アッ=サカフィーを打倒する戦いに関与し、内乱終結後はレイの総督を務めた。694年にカリフのアブドゥルマリクによってハッジャージュがイラクの総督に任命されたが、ハッジャージュの政策がイラク人の権益を脅かすものであったため、イラクの有力者層とハッジャージュの関係は悪化していった。それでもハッジャージュは699年にアラブ人勢力の進出に抵抗していたザーブリスターン(英語版)の支配者であるズンビールに対する遠征軍の指揮官にイブン・アル=アシュアスを任命した。しかし、ハッジャージュが遠征先における進軍を強要したことや、そのハッジャージュに対する従来からの反感も原因となり、イブン・アル=アシュアスとその配下の軍隊は遠征先で反乱を起こした。イブン・アル=アシュアスは背後の安全を確保するためにズンビールと協定を結び、その後イラクに向けて進軍した。
ハッジャージュは当初反乱軍の圧倒的な兵力の前に退却を強いられたが、バスラの近郊では勝利を収めた。しかし、反乱軍はクーファの占領に成功し、バスラから撤退した兵士もクーファに集まり始めた。反乱はウマイヤ朝の支配に不満を持つ人々、特にクッラー(クルアーン朗唱者)の呼び名で知られる宗教的過激派の間で広く支持を集めるようになった。カリフのアブドゥルマリクはハッジャージュの解任やイラク人の俸給(アター)の引き上げを含む条件を提示して和解を試みたものの、クッラーを始めとする反乱軍内の強硬派は政府との妥協を拒否し、交渉は不調に終わった。しかし、このような強行姿勢は結果に結びつかず、反乱軍はダイル・アル=ジャマージムの戦い(英語版)でウマイヤ朝政府が派遣したシリア軍の前に決定的な敗北を喫した。その後、イブン・アル=アシュアスは東方のズンビールの下に逃れ、生き残った反乱軍の大半も逃亡先のホラーサーンで壊滅した。最終的にイブン・アル=アシュアスはハッジャージュの圧力に屈したズンビールによって身柄を拘束されたが、その最期についてはズンビールが自ら処刑したとする説や、ハッジャージュへの身柄の引き渡しを避けるために投身自殺したとする説などがある。
イブン・アル=アシュアスの反乱の失敗は、それまでイラクのアラブ部族の有力者層が手にしていた強大な権力の終焉を意味し、この反乱以降イラクはウマイヤ朝政府に忠実なシリア軍の支配下に置かれることになった。その後、イラクでは720年にヤズィード・ブン・アル=ムハッラブ(英語版)、740年にはザイド・ブン・アリーが反乱を起こしたものの、これらの反乱はいずれも失敗に終わった。最終的にイラクがウマイヤ朝の支配から脱したのは750年にアッバース革命が成功してからのことであった。