アルルフランス語: Arlesオック語プロヴァンサル方言: Arle)は、南フランスプロヴァンス地方にあるコミューン。同国内最大面積を持つ。住民の呼称はアルレジャン(Arlésiens)と呼ばれ、フィンセント・ファン・ゴッホの絵画などの題名に用いられている『アルルの女l'Arlésienne)』はこの女性単数形である。

概要 Arles, 行政 ...
Arles



行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏
(département) ブーシュ=デュ=ローヌ県
(arrondissement) アルル郡
(郡庁所在地)
小郡 (canton) 2小郡庁所在地
INSEEコード 13004
郵便番号 13200
市長任期 パトリック・ド・カロリス
2020年-2026年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté d'agglomération Arles-Crau-Camargue-Montagnette
人口動態
人口 52 510人
2011年
人口密度 69人/km2
住民の呼称 Arlésiens
地理
座標 北緯43度40分36秒 東経4度37分40秒
標高 平均:10 m
最低:0 m
最高:57 m
面積 758,93km2 (75 893ha)
Arlesの位置(フランス内)
Arles
Arles
テンプレートを表示
閉じる

地理・気候

アルルは、ローヌ川の分岐点に位置し、カマルグの大部分を含む(カマルグの残りはサント=マリー=ド=ラ=メールに含まれる)。フランスの市町村(コミューン)では最大の面積を持ち、テリトワール=ド=ベルフォール県などよりも広い。

アルルは地中海性気候で、暑く乾燥した長い夏、穏やかな冬という対照的な季節があり、日照時間は長いが降水量が安定しない。

歴史

ローマ都市アルル

アルルは紀元前6世紀頃ギリシア人によって"Theline"の名前で創設された。紀元前535年にケルト人Salluviiによって占領された。彼は街の名前を "アレラーテ(Arelate)"(「湖(池、潟)の近く」の意味)に変更した。ローマ人は紀元前123年に街を占領した。地中海に繋がる運河を紀元前104年に建設し、街を拡張して重要な都市とした。しかし同じく海岸沿いのマッサリア(現在のマルセイユ)の影に隠れて、もがくことになった。チャンスはやってきた。カエサルがポンペイウスと対峙した時、アルルはカエサルの側に付き、軍隊を派遣した。一方、マッサリアはポンペイウスを支援していた。カエサルの勝利が決定的になると、マッサリアはその所有物を取り上げられ、報償としてアルルに引き継がれた。街はアルルに拠点のあったローマ軍の第6軍団フェッラタの退役軍人のための植民市として正式に設立した。植民市としての正式な肩書きは"コロニア・ユリア・パーテルナ・アレラテンシス・セクタンノールム(Colonia Iulia Paterna Arelatensium Sextanorum)"で、英語にすると"the ancestral Julian colony of Arles of the soldiers of the Sixth"「第6軍団の先祖伝来のアルルのユリウス植民地」であった。

重要性

アレラーテはローマ帝国の属州であったガリア・ナルボネンシスの非常に重要な都市であった。99エーカー (400,000 m2)程の土地を有し、円形闘技場凱旋門キルクス、劇場、円環状の市壁など、豊富で幅広い記念物を所有していた。現在のアルルの街よりも海に近く、主要港としても機能した。ローヌ川の最も南側にかかる橋もあった。このローマ橋は固定されているわけではなく、平底船型の橋として使用されていた。両端には塔と跳ね橋が付いていた。ボートは錨がおろされ、ちょうど少し上流に建てられた2つの塔に繋がれる形で、安全が保たれていた。この一般的でない設計は、頻繁に起こる激しい川の洪水に対処するためであった。現在は同じ場所により近代的な橋がかけられ、ローマ橋は全く残っていない。

4-5世紀の間、軍事遠征の際の、ローマ皇帝のための本部として頻繁に使用され、街の影響力はピークをむかえた。395年西ローマ帝国の西部(ガリアにヒスパニアアルモリカを加えた場所)を統治する、ガリアのプラエトリアニの本拠地となった。

街は、皇帝コンスタンティヌス1世のお気に入りとなり、彼はここにローマ浴場を建設した。現在もその大部分は残っている。彼の息子のコンスタンティヌス2世は、この街で生まれた。コンスタンティヌス3世は、ここで西ローマ帝国の西部の皇帝になることを宣言し、408年にここを都とした。

帝国末期には、街は文化的と宗教的な中心地となった。懐疑論の哲学者であるファウォリヌスはここで生まれた。街はローマカトリック教会にとっても鍵となる位置にあり、ガリアのキリスト教化の重要な基地となった。街の主教職は一連のすぐれた聖職者たちによって支えられた。225年頃のトロフィムス英語版に始まり、アルルの聖ホノラトゥスフランス語版(Saint Honoré)、5世紀前半のアルルの聖ヒラリウスフランス語版(Saint Hilary)と引き継がれた。

中世

アルルは、8世紀にこの地域を支配したイスラム教徒のサラセン人や、フランク人の侵入によって大きく影響を受けた。855年フランク人の都アルル王国が造られた。この王国はブルグント王国やプロヴァンスの一部も含んでいたが、頻繁にサラセン人やヴァイキングの侵略者のテロ攻撃を受けた。 888年オーセル伯のロドルフが上ブルグント王国を設立した。この王国はスイス西部も含んでいた。

933年アルル伯ユーグは王国をブルグント王ロドルフ2世に与えた。ロドルフ2世は二つの王国を、新設したアルル王国に併合した。1032年ロドルフ3世が亡くなり、王国は神聖ローマ皇帝コンラート2世に継承された。

近代

アルルはローヌ地方の主要な港として、経済的に長い間影響力を残した。19世紀の鉄道の開通が、最終的に水運による貿易を壊滅させてしまい、街をある種の僻地にしてしまった。

しかしこのことで、画家フィンセント・ファン・ゴッホにとってこの街が魅力的な目的地となった。彼は1888年2月21日に街に到着した。彼はその景観に魅了され、アルル時代に300以上の絵画や描画を制作した。『夜のカフェ』、『ファンゴッホの寝室』、『ローヌ川の星月夜』、『アルルの女』を含む彼の有名な絵画の多くはこの地で完成した。ポール・ゴーギャンは、アルルにいたゴッホを訪ねたが、ゴッホの精神状態が悪化しており、憂慮すべきほどに異様であり、1888年12月には悪名の高い耳の切り落とし事件を起こすに至った。ゴッホと関係のあったアルルの人たちは、翌年2月にゴッホを幽閉することを要求した陳情を人々に広めた。1889年5月、彼は気を利かせ、アルルを離れてサン=レミ=ド=プロヴァンス近郊の精神病院に入院した。

また、ゴッホの絵画作品と同名で、ジョルジュ・ビゼーが作曲した劇付随音楽(または「組曲」)『アルルの女』も有名である。

人口統計

さらに見る 1962年, 1968年 ...
1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2011年
41 932 45 774 50 059 50 500 52 058 50 426 51 970 52 510
閉じる

参照元:1999年までEHESS[1]、2004年以降INSEE[2][3]

観光

世界遺産

アルルのローマ遺跡とロマネスク様式建造物群」として、市内に残る以下の古代から中世にかけての建造物が、1981年世界遺産に登録された。

ゴッホの絵画のモデルとなった場所

その他の観光名所

  • アルル・古代プロヴァンス博物館(Musée de l'Arles et de la Provence antiques) - アンリ・シリアニ設計
  • ポルタイユ
  • 市役所
  • 古代美術館
  • キリスト教美術館
  • アルラタン博物館
  • レアチュ美術館
  • 古棺の小径
  • サン・トノラ教会

[4]

関係者

出身者
居住その他ゆかりある人物

姉妹都市

脚注

関連項目

外部リンク

Wikiwand in your browser!

Seamless Wikipedia browsing. On steroids.

Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.

Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.