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アトム・エゴヤン (Atom Egoyan, 1960年7月19日 - ) は、カナダの映画監督、脚本家、映画プロデューサー、俳優である。
アトム・エゴヤン Atom Egoyan | |||||||||||||||||||||||
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エレバン国際映画祭にて (2004年) | |||||||||||||||||||||||
本名 | Atom Yeghoyan | ||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1960年7月19日(64歳) | ||||||||||||||||||||||
出生地 | アラブ連合共和国・カイロ | ||||||||||||||||||||||
国籍 | カナダ | ||||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督 | ||||||||||||||||||||||
配偶者 | アルシネ・カーンジャン | ||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||
『エキゾチカ』 『スウィート ヒアアフター』 『アララトの聖母』 | |||||||||||||||||||||||
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備考 | |||||||||||||||||||||||
第53回ベルリン国際映画祭 審査委員長(2003年) |
1960年7月19日、亡命したアルメニア人の両親の元、エジプト・カイロで生まれる。父親は画家、母親は劇作家であった。3歳の時に一家でカナダに移住する[1]。トロント大学で国際関係学を学んだ後、映画製作に興味を持つようになり、1977年に最初の短編映画『Lust of a Eunuch』を製作。
1980年代に入り、『ピープショー』(1981年)や『オープン・ハウス』(1982年)などを製作した後、1984年に『Next of Kin』で長編映画監督としてデビューする。1987年の『ファミリー・ビューイング』は翌1988年の第38回ベルリン国際映画祭のフォーラム部門に出品され、インターフィルム賞を受賞[2]。同年のジニー賞では作品賞など8部門にノミネートされた[3]。日本では長らく劇場未公開であったが、2004年に開催されたアトム・エゴヤン映画祭2004で上映された[4]。その後製作した『Speaking Part』(1989年)や『The Adjuster』(1991年)はカンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、高い評価を得た[5]。
1994年の『エキゾチカ』は第47回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映され、国際映画批評家連盟賞を受賞[6]。1997年の『スウィート ヒアアフター』は第50回カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した[7]。これらの作品はジニー賞の作品賞・監督賞も受賞している[8][9]。
2002年、自身のルーツでもあるアルメニアの歴史の中のオスマン帝国によるアルメニア人虐殺について扱った『アララトの聖母』を発表。その内容には賛否が分かれたが、ジニー賞では3度目の作品賞を受賞した[10]。2008年ダン・デイヴィッド賞受賞。
2013年の『デビルズ・ノット』は批評家に酷評された[11]。2014年、『白い沈黙』が第67回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映されたが[12][13][14]、批評家からは酷評された[15]。現在、新作の『手紙は憶えている』を製作している[16]。
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