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野田城 (河内国)

大阪府堺市にあった城 ウィキペディアから

野田城 (河内国)
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野田城(のだじょう)は、河内国丹比郡野田荘(大阪府堺市東区)にあった日本の城

概要 logo野田城 (大阪府), 城郭構造 ...

概要

南北朝時代に野田荘の地頭をしていた野田正勝が築き、第3代野田正康までの居城であったという[1]城跡は現在、東区南野田の「すかしゆり公園」内にある。

歴史

  • 1326年 野田庄地頭の野田四郎正勝によって、穂出籬山(ほでがきやま)の高台に野田城が築かれた。
  • 1333年 楠木軍の掃討に遭った野田氏はそれ以来南朝の後醍醐天皇を奉り、楠木氏に忠誠を尽くすことになった。
  • 1336年 四郎正勝は楠木正成に従い、足利軍の上洛を阻止するが湊川の合戦に挑むが共に戦死した。
  • 1338年 高師直の北朝軍に取り囲まれるが、四郎正勝の子・四郎正氏の知略により大きな損害を免れた。「いばらの垣根」「泥田」「紙張りの城」などで進軍を遅らせ、敵の目を欺き村人の犠牲を防いだ。
  • 1348年 四郎正氏は四条畷の合戦楠木正行と共に戦死する。
  • 1360年 足利の大軍に包囲された四郎正氏の子・兵部正康は城に火を放ち城外で戦うが、そこは女・子どもを巻き込んだ凄惨な戦場と化し、野田村は壊滅状態となった。兵部正康は狭山の明神山まで退却して奮戦したが戦死し、子孫は奈良から尾張方面に逃れたと伝えられている[2]。(異説あり)
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注釈

文献・参考リンク

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