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戦国時代の武将。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。遠山直景の長男とも。甲斐守、丹波守。 ウィキペディアから
遠山 綱景(とおやま つなかげ、永正10年(1513年)? - 永禄7年1月7日(1564年2月19日))は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。武蔵遠山氏の当主。遠山直景の長男とも。子に遠山藤九郎、遠山隼人佐(- はやとのすけ、実名不詳、妻は北条綱成の娘・浄光院殿)、遠山政景、川村秀重、法性院(後に北条氏綱養女となり、太田康資に嫁ぐ)。官位は甲斐守、丹波守。
『小田原衆所領役帳』にて、江戸衆筆頭に列せられ、相模西郡松田や曽比郷、相模中郡金目郷などに約963貫(武蔵葛飾郡にも飛び地があり合わせると1242貫)を知行した。
永正10年(1513年)頃、北条氏の重臣・遠山直景の子(長男とも)として誕生。主君の北条氏綱から偏諱(綱の一字)を賜い、綱景と名乗る。
天文2年(1533年)に父が死去すると、家督を継ぐとともに、父に引き続き江戸城代となった。なお、江戸城代は3人置かれており、本丸には富永氏、三の丸には太田氏が寄っており、遠山氏は二の丸にあった。そのため、本丸の富永を城代の首席であるとする見方があるが、同時代の資料(宗牧の記述)によれば、遠山氏を城代として重きを置いているという。
天文13年(1544年)に連歌師の宗牧を呼び、連歌の会を催したことが記録に残っている。当時の関東は田舎であり、文化の中心地である京とはかけ離れた土地であったが、そのようなところで連歌の会を開いたことは、綱景の教養の高さや連歌師を呼べるだけの北条家中における地位を端的に表している。また、永禄元年(1558年)の古河公方足利義氏の小田原城訪問時には、北条氏の5宿老として松田盛秀(憲秀の父)・遠山綱景・笠原綱信・清水康英・石巻家貞が義氏に拝礼を行っている。また、この頃に江戸城の東側にあった葛西城を与えられた。
永禄7年(1564年)、娘婿でもあり、同じく江戸城代でもあった太田康資が離反。太田らの救援を越後国の上杉謙信に依頼された安房国の里見氏が出兵したことにより第二次国府台合戦が起こる。娘婿の離反を見抜けなかった綱景は、同じく江戸城代の地位にあった富永直勝とともに、北条綱成が率いる本隊よりもかなり先行して江戸川を渡河するが里見氏の反撃にあい、子の隼人佐や娘婿の舎人経忠とともに討ち死にした。
綱景と嫡男であった隼人佐が戦死したため、家督は出家していた三男(後の遠山政景)が還俗して継いだ。
なお、弟である遠山康光とその子直次は、上杉景虎付きとして越後国に赴いた後に御館の乱で父子ともども殺害された。舎人経忠に嫁いでいた娘は第二次国府台合戦での夫の討死後、嫡男の勇丸を連れて大道寺政繁と再婚し4人の男子を生んだ。勇丸は養子となり、大道寺直英を名乗った。政繁の四男の大道寺直次が一時、遠山長右衛門と名乗ったが、江戸幕府の旗本千石に任じられた際に大道寺に復姓した。
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