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奈良時代後期の公卿。藤原乙麻呂の長男。従二位・右大臣、贈従一位。藤氏長者 ウィキペディアから
藤原 是公(ふじわら の これきみ)は、奈良時代後期の公卿。初名は黒麻呂。藤原南家、武部卿・藤原乙麻呂の長男。官位は従二位・右大臣、贈従一位。牛屋大臣と称された。
天平宝字4年(760年)に父の乙麻呂が没するが、翌天平宝字5年(761年)従五位下に叙爵し、神祇大副のち左勇士佐に任ぜられる。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後に、播磨守次いで山背守と地方官を務める。称徳朝では俄に昇進し、天平神護元年(765年)従五位上・左衛士督に叙任、翌天平神護2年(766年)には従四位上まで昇叙された。またこの間に黒麻呂から是公に改名している。のち称徳朝では、内豎大輔・侍従・内蔵頭を歴任した。
光仁朝に入っても順調に昇進を続け、宝亀4年(773年)正四位下、宝亀5年(774年)参議に任ぜられ公卿に列した。宝亀10年(779年)従三位。この間、左衛士督・左大弁など文武の要職を歴任するとともに、皇太子・山部親王の春宮大夫も務めた。
天応元年(781年)春宮大夫として仕えた山部親王が即位(桓武天皇)すると天皇に重用され、さらに光仁朝以来の大官であった藤原魚名(左大臣)・大中臣清麻呂(右大臣)・石上宅嗣(大納言)・藤原田麻呂(右大臣)らが相次いで没したこともあり、急速に昇進を果たすことになる。同年正三位・中納言に叙任されて、同い年ながら10年近く早く参議となっていた同じ南家の藤原継縄に肩を並べ、翌天応2年(782年)継縄を越えて大納言に昇進する。延暦2年(783年)には右大臣に任じられ、桓武朝に入ってわずか3年ほどで一介の参議から太政官の筆頭にまで昇り詰めた。延暦3年(784年)従二位に至る。
大柄な体つきであり、加えて威厳があった。その時に応じた政務に通暁した有能な官人であり、てきぱきと裁断し滞ることがなかったという。[1]
『続日本紀』による。
『尊卑分脈』による。
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