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中御門流藤原氏の支流・権大納言泰通の次男。寿永2年(1183年)に叙爵を受け、翌年侍従に任官。以後は国司を兼ねつつ、建仁元年(1201年)には右近衛少将、元久3年(1206年)には正四位下に進み、翌年には左近衛中将となった。国通は妻に鎌倉幕府初代執権・北条時政の娘を迎えており[注 3][10]、京都・鎌倉間を往来するなど武家方とは親密な関係にあった[14]。建保2年(1214年)に蔵人頭を兼ねて頭中将となり、建保6年(1218年)には参議となって公卿に列した[5]。翌年、従三位に叙され[15]、鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた源実朝の右大臣拝賀式に坊門忠信・西園寺実氏・平光盛・難波宗長とともに公卿として列参し、そこで実朝暗殺事件に遭遇している[16]。
承久の乱の明けた承久3年(1221年)12月、後堀河天皇の即位の礼において左侍従を務める[17]。貞応元年(1222年)、火災で自邸の楊梅坊城第が全焼し、家記数百巻を焼失する[18]。同年、正三位[19]。嘉禄元年(1225年)、幕府の推挙を得て権中納言に昇進。安貞2年(1228年)に従二位となり[20]、寛喜3年(1231年)には正官に転じたが[21]、翌年一条実有に譲って官を辞し[22]、同年出家[23]。正元元年(1259年)に84歳で薨去した[1]。
※脚注のない項目はいずれも『公卿補任』建保六年条による[5]。
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