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平安時代中期の公卿。藤原北家九条流。藤原道綱の三男。正三位・参議。 ウィキペディアから
母の姉妹である源倫子が叔父の藤原道長の正室であった関係で、道長の養子として世に出る。寛弘8年(1011年)に元服するが、左大臣であった道長の子として従五位上に直叙し[1]侍従に任ぜられ、同年中に正五位下・右兵衛佐に叙任される。
以後、寛弘9年(1012年)左近衛権少将、長和3年(1014年)従四位上、長和4年(1015年)正四位下、長和6年(1017年)右近衛中将と道長の威光を背景に昇進を重ね、寛仁2年(1018年)に19歳にして従三位に叙せられて公卿に列する。公卿到達年齢としては、道長の庶子である頼宗(19歳)・能信(20歳)・長家(18歳)に匹敵する昇進スピードであった。
治安3年(1023年)には参議に任ぜられるが、その後病のため昇進が停滞。長暦元年(1037年)に至ってようやく正三位に叙せられる。長久4年(1043年)4月25日に病気により出家し、5月2日薨去。享年44。
万寿元年(1024年)の豊明節会において、五節舞の舞姫を貢進するも、中納言・藤原朝経の従者が頭中将・藤原公成の名を騙って舞姫の控室に侵入し、「懐に抱く」との暴挙に出る。ここで兼経は自身でこの侵入者を捕らえ、検非違使に引き渡した。しかし、今度は兼経が舞姫のいる控室に籠もって出てこなくなる。さらに翌日になって、自分が監督すべき重要な朝廷の神事が開催される予定であったにもかかわらず、胸の病を口実に控室から出ようとしなかったという[2]。
注記のないものは『公卿補任』による。
『尊卑分脈』による。
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