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平安時代後期から鎌倉時代前期の公卿。滋野井実国の次男。従二位・参議。左中将。子に河鮱実隆(1203-1270、母は家女房(-1229))、藤原実嗣(侍従、本実広)、実誉(園城寺)、実秀、実 ウィキペディアから
藤原 公清(ふじわら の きんきよ、旧字体:藤󠄁原 公󠄁淸)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。権大納言・滋野井実国の次男。八条または風早二位と号した。官位は従二位・参議。左中将とも。
嘉応2年(1170年)に5歳で従五位下に叙爵。治承3年(1179年)に昇殿を聴され、治承4年(1180年)左衛門佐に任ぜられた。養和2年(1182年)従五位上に昇叙。
元暦2年(1185年)従四位下・近江権介に叙任。左近衛少将を経て、文治6年(1190年)には従四位上・駿河介に叙任された。建久4年(1193年)に左近衛少将・平光盛と共に除籍されているが詳細は不明。建久9年(1198年)3月に石清水臨時祭の舞人に奉仕し[1]、同年11月には正四位下・近江介と順調に昇進。正治2年(1200年)東宮昇殿を聴され、正治3年(1201年)左近衛権中将に転じた。同年11月に行われた賀茂臨時祭では祭使を務めた[2]。
建仁2年(1202年)正月加賀介を兼任し、同年3月の後鳥羽上皇の御幸の際には沓を献じている[3]。建仁3年(1203年)に従三位に叙せられて公卿に列した。建永2年(1207年)には正三位・参議に叙任されるが、その後の昇進は停滞する。
建暦元年(1211年)に参議を辞退して従二位に叙せられる。貞応2年(1223年)12月に出家して安貞2年(1228年)に薨去。享年63。
※以下、『公卿補任』の記載に従う。
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