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戦国時代から江戸時代初期の武将 ウィキペディアから
薄田 兼相(すすきだ かねすけ)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。通称は隼人正。豊臣秀頼に仕えた。兼相の前身は講談で知られる岩見 重太郎(いわみ じゅうたろう)といわれている[1]。
前半生はほとんど不明。妹に堀田一継室がいる(『寛政重修諸家譜』)。
豊臣氏に仕官し、秀吉の馬廻り衆として3,000石を領したとされる(後に5,000石に加増)。慶長16年(1611年)の禁裏御普請衆として名が残っている[注釈 1]。
慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは守将でありながら遊女と戯れている間に、砦を徳川方に陥落されたため味方から「橙武者」と軽蔑されていた[2]。その理由は「だいだいは、なり大きく、かう類(柑類)の内色能きものにて候へども、正月のかざりより外、何の用にも立ち申さず候。さて此の如く名付け申し」(『大坂陣山口休庵咄』)というものであった[3]。
夏の陣の道明寺の戦いにおいては、渋皮色の鎧に星兜の緒を占め、十文字の槍を取り、黒毛の馬に黒鞍を置き、紅の鞦を掛けていた。三尺三寸の太刀を帯び、軍勢の先頭をきって駆けつけた(『難波戦記』)[2]。十騎ばかりの敵を討ち取ったが、押し寄せる東軍のために、間もなく戦死したとされる[2]。
墓は大阪府羽曳野市誉田7丁目に子孫にあたる浅野家の一族によって建立され、平成8年(1996年)に羽曳野市の指定有形文化財となっている[4]。
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