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日露戦争に勝利し朝鮮を獲得した日本は、半島警備の為に2個師団増設が計画され、1915年(大正4年)12月24日に編成が決まった。同時に編成されたのが第19師団である。ともに朝鮮軍に属した。
師団の兵卒は日本の内地で他の師団が管轄する師管で徴集された。1927年(昭和2年)時点では主に第4師管・第5師管・第10師管・第11師管・第12師管・第16師管と一部他師管で徴集することが原則とされていた[1]。大阪を含む近畿地方の一部から、中国・四国地方の全域、および九州地方北部に相当する。
日露戦争に勝利し大韓帝国を併合したが、当初朝鮮の警備は内地にある在来師団を交替で派遣していた。明治の末頃から師団増設は検討されていたが、続く戦役から政府は財政難であった為1915年(大正4年)まで実現しなかった。
1915年(大正4年)12月24日に編成が決まったものの、実際に編成にあたったのは1918年(大正7年)からで、編成完結まで実に3年の時を要する。財政難の日本にとって、第19・第20の両師団は共に難産であった。
第20師団は京城府龍山で編成され、1919年4月1日に師団司令部を設置した[2]。所属歩兵連隊は歩兵第77・歩兵第78・歩兵第79・歩兵第80連隊の4個連隊。補充は内地から行われた。編成完結後、主に朝鮮南部の警備にあたった。
1931年(昭和6年)柳条湖事件が起こると之に師団の兵力を抽出し混成第39旅団を編成して同年9月18日に派遣する。同年12月頃には師団主力も動員されて錦州攻略に当り、1932年(昭和7年)4月に帰還する。1937年(昭和12年)7月に盧溝橋事件が起ると華北戦線に動員される。
戦力の充実した常設師団として第19師団と共に朝鮮半島において陸軍の総予備として控えていた。以前より対ソ戦(縦深陣地攻撃)への練度が高く、1941年(昭和16年)7月、動員下令となるが直ぐには戦地へ行かず、京城にて引き続き訓練を行っていた。1942年(昭和17年)に野砲から山砲への改編が行われたことにより、満州以南への派遣が決定的となった。なお、1943年(昭和18年)9月、師団隷下の歩兵第77連隊が第30師団隷下に移る。
1943年(昭和18年)から師団はニューギニア戦線に動員され、同地でオーストラリア軍と交戦し、終戦を迎える。ニューギニアには25,000名の兵力で臨んだものの敵軍との交戦やマラリアによって多大な損害を被り、生還し復員したのは僅か1,711名であった。
※1944年(昭和19年)3月14日大陸命第963号を以って第18軍戦闘序列に編入される。
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