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田宮 如雲(たみや じょうん、文化5年10月23日(1808年12月10日) - 明治4年4月19日(1871年6月6日)[1])は、江戸時代後期の尾張藩側用人、家老。名は篤輝。通称・弥太郎、晩年に如雲と改め、桂園と號す。旧姓・大塚[1]。
尾張藩士・大塚三右衛門正甫の第二子として生まれ、田宮半兵衛の養子となる[1][2]。金鉄組を立ち上げ第11代藩主・徳川斉温の後継として支藩高須藩の松平秀之助(徳川慶勝)を擁立する運動を起こすが実現しなかった[1]。
嘉永2年(1849年)慶勝が第14代藩主に就任し、嘉永5年(1852年)側用人格となり藩政改革に取り組む[1]。安政5年(1858年)安政の大獄により慶勝が隠居・謹慎処分を受けると、如雲も屏居となる[1]。文久2年(1862年)に赦され、文久3年(1863年)城代に就任[1]。
元治元年(1864年)第一次長州征討において慶勝が征長総督となり参謀として従軍。長州藩に寛大な処分を行うことに尽力したことから幕府の忌避を受け、慶応元年5月(1865年)屏居となる[1]。同年8月に赦され、その後、京都に上洛し、慶応3年12月9日(1868年1月3日)新政府の参与に就任[1]。戊辰戦争では甲州・信州の平定に従事[1]。明治2年(1869年)名古屋藩大参事となるが、明治3年5月(1870年)、病のため辞職した[1]。
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