日本の教育者 ウィキペディアから
田中 敬一(たなか けいいち、安政5年1月24日[1](1858年3月9日) - 昭和5年(1930年)7月21日[2])は、日本の教育者。
美作国勝山(岡山県真庭市)出身[1]。同人社・三叉学舎・慶應義塾を経て、1878年(明治11年)に東京師範学校(後の東京高等師範学校)に入り、1884年(明治17年)に卒業した[3]。長崎外国語学校教諭、長崎県中学校教諭、長崎県師範学校教諭、高等師範学校助教諭・訓導、岐阜県師範学校教頭、同校長を経て、1892年(明治25年)に宮城県師範学校校長に就任した[3][4]。1893年(明治26年)、東京女子高等師範学校教授となり、1897年(明治30年)に東京府師範学校校長に転じた[3]。1900年(明治33年)、台湾総督府国語学校校長となる[3]。1906年(明治39年)、東京振武学校教頭[4]。退官後の1908年(明治41年)からは日本橋高等女学校校長を務めた[1]。
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