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江戸幕府が設置した防火用の空地 ウィキペディアから
火除地(ひよけち)とは、江戸幕府が明暦3年(1657年)の明暦の大火をきっかけに江戸に設置した防火用の空地[1]。広義では、同様の趣旨を持った街路である広小路なども含まれる。このため、狭義の火除地を火除明地(ひよけあきち)と呼んで区別する場合もある。
江戸の急速な発展により火災の危険が増大したとして、その延焼防止のために火除地を作る構想は早くから存在したとされているが、実際に実行されたのは明暦の大火 (1657年)による甚大な被害の後であった。同大火後に焼け跡5ヶ所を火除地に充てた他、以後も主として江戸城への類焼を防止する観点から江戸城の北西側を中心に少しずつ増やされて享保年間には13ヶ所にも増大された。
ただし、火除地は単なる空地だったわけではなく、火除地の機能を損なわない範囲内で公私に利用を許すこともあった。このため、幕府の薬園や馬場、小規模な露店並びが設置されている例も存在した。
江戸城への延焼と町人地内での大火への進展抑制を目的として配置されたと考えられ[2]明暦の大火後は、
が該当する。
元禄期頃(17世紀末)までは火除機能の専用空間であった火除地は、元禄から享保期(18世紀前半)にかけて、防火体制の整備や都市共同体の成熟により、防火よりレクリエーションのための広場としての性格が強くなり、時代が下るとともに歓楽地として進展していった[3]。それがあまりに過熱したため、延享年間(1740年代)には、一部を除き、娯楽利用が禁止され、火除機能純化策がとられた[3]。遊興地としての利用が引き続き許された両国橋付近は宝暦年間(1750年代)には空前の盛況となった(両国広小路の項参照)[3]。明和・安永期頃(18世紀後半)より、各地で火除地での娯楽施設の設置申請が相次ぎ、禁止されていた地域でも再びレクリエーションの場として発達していった[3]。
また8代将軍の徳川吉宗の時代には、江戸への人口集中が進み、火除地の新設は困難となり防火建築の奨励が防火対策の中心となった[1]。
幕末には、幕府の弱体化、市街地の高度利用の必要性の高まり、経済的能力の不足などの理由で、火除地や防火建築が減少した状態で明治維新を迎えた[1]。
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