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中国河南省の地級市 ウィキペディアから
洛陽市(らくようし、簡体字中国語: 洛阳市、拼音: )は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市。
中華人民共和国 河南省 洛陽市 | |
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上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺 | |
別称:洛 | |
旧称:西亳、洛邑、雒陽、神都 | |
河南省中の洛陽市の位置 | |
中心座標 北緯34度39分 東経112度26分 | |
簡体字 | 洛阳 |
繁体字 | 洛陽 |
拼音 | Luòyáng |
カタカナ転写 | ルオヤン |
国家 | 中華人民共和国 |
省 | 河南 |
行政級別 | 地級市 |
市委書記 | 江凌 |
市長 | 徐衣顕 |
面積 | |
総面積 | 15,208 km² |
市区 | 4,304 km² |
海抜 | 144 m |
人口 | |
総人口(2016) | 662 万人 |
市区人口(2015) | 215.77 万人 |
経済 | |
GDP(2016) | 3782.9 億元 |
一人あたりGDP | 57,100元 |
電話番号 | 0379 |
郵便番号 | 471000 |
ナンバープレート | 豫C |
行政区画代碼 | 410300 |
市花 | ボタン |
公式ウェブサイト: http://www.ly.gov.cn/ |
洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。「陽」は「日当たりのいい場所」の意で、河谷の北側斜面などの南中した太陽と向かい合う土地を指す。つまり、山岳や丘陵の斜面では河谷とは逆に「陽」は南側斜面にあたる。
河南省西部にあり、黄河の中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河・洛河・伊河・澗河・瀍河が領域内を流れる。東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。中岳嵩山も隣接する。古くから兵家必争の地であり、歴代の帝王が都を建てようと考えた土地でもあった。
洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多いことである。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。
北部の三門峡市が編入したり、独立したりを都度繰り返す。この三門峡市の北側に黄河が流れ、1960年に黄河を堰き止める形で三門峡ダムが建設された。
黄河支流の洛水流域はそれまで黄土高原を流れてきた黄河が華北平原に出る位置にある。つまり、黄土高原において重要な勢力を養ってきた黄河支流の渭水(周・秦)、汾水(晋)流域からの華北平原への出口に位置しており、なおかつ邙山により黄河本流の氾濫からは遮られている。そのため、この地域一帯には新石器時代より重要な遺跡が残されている。洛河支流の澗河上流には仰韶文化の発見由来ともなった仰韶村遺跡があり、文化古典伝承の夏に相当するとも考えられている二里頭遺跡、殷初期の都城遺跡である偃師商城などが並んでいる。
洛陽の歴史は、周の成王の時代に殷を滅ぼした周の東方経営の拠点の下都として洛邑の都城が築かれて、王城、成周、東都と呼ばれたことに始まる。平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都が移された。
こうした経緯から、中国古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた「長安」と華北平原の経済力と結びついた「洛陽」が対になって首都機能を担う形が出来上がっていった。
その後、後漢・三国魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて「洛陽」に都が置かれている。
漢代では、火徳とする漢王朝に「洛」字の水偏(サンズイ)が忌まれ、「雒陽」に改名された。しかし、土徳を掲げる曹魏により元の洛陽に戻された。
また、唐朝を一時簒奪した女帝武則天の朝廷である武周(690年 - 705年)では神都と改名されて都となった。これも唐の復活により元の洛陽の名に戻された。
三国時代の呉から南朝の統治下で江南の開発が進み、華北平原と取って替わって穀倉地帯としての地位が向上した。隋の南北統一と大運河の建設により華北の政権を江南の生産力が支える形が確立された。洛陽は江南の物資を長安の軍事、政治と結びつける集積地として「東都」とも呼ばれて繁栄した。
しかし唐王朝の衰退・滅亡で渭水流域の軍事的政治的地位が凋落すると、江南の生産力を華北に移送する集積地としての地位はより東方の開封に取って代わられることとなった。
その後、五代十国時代を経て、建国された宋ではいよいよ開封が本格的な首都とされた。
さらに元代以降は、政治の中心がモンゴル高原東部の騎馬軍事力を背景とした北京に移り変わり、これを南京に集積された江南の富が支える形が確立して、洛陽の歴史的な首都機能は失われた。このため中国本土の中心地としての重要性こそ低下したが、河南地域の主要都市としての地位は現在まで受け継がれている。
明・清代には河南府の府治が設置され、中華民国が成立すると洛陽専区が設置されていた(1948年に設置された洛陽市は県級市であり、洛陽地区の管轄下に置かれた)。
1944年には大陸打通作戦により、日本軍に占領された。1956年に地級市としての洛陽市が成立している。
2000年にユネスコ世界遺産に登録された龍門洞窟は洛陽市郊外に位置している。これは493年(太和17年)、北魏が洛陽に遷都した時代に建築が始まった石窟寺院であり、中唐まで、およそ3万体の仏像が石窟の中に作られたものである。
7市轄区・7県を管轄下に置く。
総人口は615万人であり、区部にはそのうち140万人が住む。
洛陽市には様々な民族が雑居し、その数は合わせて32民族を数える。その中で漢族は602万人であり、市の人口の98.8%を占める。その他の少数民族は8万人近くおり、市の人口の 1.2 パーセントを占める。回族・満州族・モンゴル族が比較的多い。
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