池田勝徳
ウィキペディアから
ウィキペディアから
池田 勝徳(いけだ かつのり、1944年 - )は、日本の社会学者、作家・評論家。
1944年京都府に生まれ、63年府立福知山高校卒業。当時田舎では浪人しての受験が一般で、翌年の本番を視野に気軽に参加した趣味の美術クラブの夏季講習で「自己の美才のなさと、売れない画家の悲惨な生活や過酷な浪人生活」の実態を知らされ、恐怖感に苛まれた。そこでとりあえず美大と、日程的に受験可能な最低六大学はとしてあったのが法政大学で、入学後そこが学生運動の拠点の一つで、マル系の著名な学者(ゼミの本田喜代治教授もその一人)が多い大学ということや、聞いたことのない唯物論や弁証法等を知り、それに夢中になった。しかし次第に学生運動が変貌、凶暴化していく中で(晩年は教授自身も葛藤)、視点の異なるアメリカ社会学の重要性を教授され、『ヒューマン・グループ』などを翻訳し、いち早くアメリカ社会学に強い関心をみせていた日本大学大学院を紹介され、斎藤正二名誉教授を指導教授に、それまでの抽象的、哲学的な思考から、実証科学としての社会学への転向を図った。特に高度経済成長後の人口増や大学教育の大衆化、昨今のIT化や実用化の中で誕生した大学とは異なり、当時は大学、まして100年以上もの長い歴史を持つ大学は極めて少なかった上に、そこには内部優先などの悪しき不文律があり、外部の者の就職は難しかった。が、幸い博士課程単位修了と同時に奉職できた。このことで本命の受験をせずに終わった後悔も、また誤った過信や自尊心から約10年間の学費、生活費の殆んどを「奨学金と学習塾の経営」で調達した自負心をも昇華しえた。しかも積極的なM.シーマン教授の紹介や批判が評価され、教授の招きで公費でUCLAに、そしてサバティカル制度で北京大学に留学。加えて在職中は日本ペンクラブの会員として、数多くの学会誌への執筆や書籍の出版のほか、文系では珍しく「疎外、医療、福祉、ボランティア」の各テーマで、長年に渡り科学研究費による研究や、文部省の出版助成金での出版[1][2]の他、新たに「医療小説」のジャンルを提唱[3]して『禁断の手』や『老いのセクソロジー』等の出版の他、日本学術会議協力学術研究団体・「日本教育福祉学会」創設での副代表、理事や日本大学社会学会理事、政令指定都市・相模原市の社会福祉審議会や高齢者福祉協議会の委員長・会長を歴任[4]。2014年定年により大学退任後は出版社の顧問(聴取・文責 木下)。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.