民族自決
各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利 ウィキペディアから
各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする集団的権利 ウィキペディアから
民族自決(みんぞくじけつ、英:self-determination)とは、各民族・人民(英:peoples)が,みずからの意志によってその運命を決定するという政治原則[1][注釈 1]。
民族自決には「外的自決」と「内的自決」の2つの意味がある。外的自決は人民が植民地状況を脱し、独立を達成したり、他国と連携をしたり、はたまた施政国と統合をすることである。「植民地人民」を享有主体とする場合の外的自決権については、国際連合憲章のときには権利としては認められていなかったが、植民地独立付与宣言や友好関係原則宣言などを通して権利として認められるようになった(民族自決権)。一方内的自決は、一国内で政治的地位や経済的地位を自由に決定するという意味である。政治的地位の決定を「政治的自決」、経済的地位の決定を「経済的自決」ということもある[2]。
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1917年、ロシア革命中にウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権による布告「平和に関する布告」は、「無賠償・無併合・民族自決」に基づく即時講和を第一次世界大戦の全交戦国に提案した[3]。この民族自決は、ヨーロッパ・非ヨーロッパの区別なく、政権・多民族国家などによる、植民地を含めた他領土・他民族の強制的「併合」を否定し、個々の民族の自決を全面的に支持した内容であった。アメリカ合衆国大統領のウッドロウ・ウィルソンはこの布告を「世界に貴重な原則を示した」と評価した。しかしフランスやイギリスなどの同盟諸国はこの布告を無視した。1918年、ブレスト=リトフスク条約で、ロシアは第一次世界大戦から正式に離脱し、さらにフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ及び、トルコとの国境付近のアルダハン、カルス、バトゥミに対するすべての権利を放棄した。
ウッドロウ・ウィルソンが1918年に発表した「十四か条の平和原則」の第5条で制限的な民族自決に言及し、それが翌年のヴェルサイユ条約での原則となった。これにより、オーストリア=ハンガリー帝国などが分国し、アイルランド、フィンランド、バルト三国、ポーランド、チェコスロバキア、セルビア人=クロアチア人=スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)が、アジアやアフリカでは、モンゴル・アフガニスタン・イラク・イエメン・エジプトが独立を果たした。しかしイギリスやアメリカ合衆国は海外に植民地を有しており、民族自決はあくまでヨーロッパ内部にのみ適用されたルールであったため、非西欧諸国で生じた独立運動に対し政府は弾圧の姿勢を取り続けた(インドにおける民族自決運動に対するイギリス政府の対応)。しかも、民族自決の理念の基独立を果たした東欧諸国も様々な民族が混在する中で連合国の都合で国境が画定されたためにその後も民族間での不満が燻り続けた。また、これを逆手に取り周辺地域に住むドイツ系住民の保護や民族自決の適用を理由にナチス・ドイツがこれらの地域を併合し、第二次世界大戦を引き起こすに至った。
第一次世界大戦中、イギリスは民族自決という国際世論の圧力に押され、インドに自治を独立したものの、大戦後の1919年インド統治法は自治とは程遠い内容であり、同年に制定されたローラット法に基づき、イギリスは抗議運動をしていた民衆に発砲するといった強圧な態度を取った。これに対しガンディーは、非暴力を掲げた民族運動を実施したものの、農民による警官殺害事件を機に生じた民族運動方針の対立により頓挫した。その後インド統治法を制定するための憲政改革調査委員会にインド人が含まれていなかったことに不満を抱いた現地民を中心として民族運動が激化し、1929年にはネルーらの急進派が完全独立を訴える中、1937年には州選挙が実施された。第二次世界大戦が始まり、完全独立のための民族運動は、イギリス政府により弾圧され、ガンディーなどは投獄された[4][5]。
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近世初頭(16世紀から17世紀)において、植民地諸国はあくまで宗主国の対象として見られていたが、19世紀には宗主国の超過利潤追求のための支配の客体として位置づけられるようになった[6]。しかし第二次世界大戦を通じ植民地施政国は経済的に疲弊し、植民地諸国に権力の空洞が生じた。アメリカは植民地における民族自決に好意的な態度をとり、冷戦の中で共産主義陣営に第三世界の国々がつくことの懸念などが原因となって、「植民地独立付与宣言」などを経て植民地体制が国際社会で非難される中で植民地を手放さざるを得なくなった。こうして植民地体制は結果として崩壊した[7][8]。
帝国主義の下で西欧列強の植民地となっていた国々では、民族自決原則に立脚した独立・建国運動が多くの非西欧地域で展開されていた[9]。その運動は植民地体制の崩壊という現実の中で実現し、結果として元植民地諸国が国際社会に参画し「国際社会の構造変化」が起こった[10]。それらの国々が国際連合総会において決議採択を集団で働きかけることで実行が積み重なっていき、「友好関係原則宣言」採択過程のアメリカの発言に見られるように「「世界史の現段階では自決権は政治的要請ではなく、現代国際法の確立した原則」となったのである[11]。
民族自決原則を根拠に独立を達成した発展途上国は、「経済的自立がなければ真の独立はあり得ない」として自決権の経済的側面(経済的自決権)を強調した[12]。またアパルトヘイト問題など人種差別にに対する自決権(政治的自決権)の適用も主張された。さらに1970年ごろから経済発展のための様々な観点での国際協力を目的とした新たな人権論として「第三世代の人権」も提唱され始める[10]。
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1990年以降ほとんどすべての植民地が解消した。冷戦によるアメリカ・ソ連のパワーが弱まる中で、多民族国家では主権国家からの独立の動きもいくつか起きた(ユーゴスラビア、チェコスロバキアの事例など)[13]。
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民族自決は国際文書や国際司法裁判所の判決・勧告的意見などで判示され、さらにアジアアフリカ諸国の民族自決運動による独立という実行の中で政治原則から法的権利として確立した[注釈 2]。
国際連合憲章(国連憲章)において民族自決に関わる部分は、国連憲章第1条(目的)第2項と第55条(経済的および社会的国際協力の目的)の2つである。民族自決とのかかわりあいは、ソヴィエト社会主義共和国連邦により条文に組み込まれた[14]。
第1条【目的】2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
第55条【経済的および社会的国際協力の目的】人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の平和的且つ友好的関係に必要な安定及び福祉の条件を創造するために、国際連合は、次のことを促進しなければならない。
a. 一層高い生活水準、完全雇用並びに経済的及び社会的の進歩及び発展の条件
b. 経済的、社会的及び保健的国際問題と関係国際問題の解決並びに文化的及び教育的国際協力
c. 人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守
一般的に国際連合憲章において自決権が法的権利として認められたと解することは難しい[注釈 3][15]し、国際連合憲章第1条2項並びに第55条を援用して自決権による植民地地域からの独立を訴えることは難しい。理由は大きく3点ある。
1点目は「人民の同権および自決の原則の尊重」という文言である。原則の尊重から、権利として認められていないことは明白である。
2点目は「人民の同権と自決の原則の尊重に基礎を置く諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化する」という文言である。ここから、人民の同権と自決の原則はあくまで諸国間の友好関係の発展と世界平和の強化の修飾語に過ぎず、第1条2項の文言の重点は人民の同権と自決の原則ではなく、諸国間の友好関係の発展と世界平和の強化である。
3点目は国連憲章全体を見たときの「信託統治地域」と「非自治地域に関する宣言」の2つの条文との文脈上の整合性である。信託統治地域の文言には以下のようにある。
国際連合憲章第76条【信託統治制度の基本目的】信託統治制度の基本目的は、この憲章の第1条に掲げる国際連合の目的に従って、次のとおりとする。
- a. 国際の平和及び安全を増進すること
- b. 信託統治地域の住民の政治的、経済的、社会的および教育的進歩を促進すること。各地域及びその人民の特殊事情並びに関係人民が自由に表明する願望に適合するように、且つ、各信託統治協定の条項が規定するところに従って、自治又は独立に向っての住民の漸進的発達を促進すること。
- c. 人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように奨励し、且つ、世界の人民の相互依存の認識を助長すること。
- d. 前記の目的の達成を妨げることなく、且つ、第80条の規定を留保して、すべての国際連合加盟国及びその国民のために社会的、経済的及び商業的事項について平等の待遇を確保し、また、その国民のために司法上で平等の待遇を確保すること。
- 国際連合憲章第73条【非自治地域に関する宣言】
人民がまだ完全には自治を行うには至っていない地域の施政を行う責任を有し、又は引き受ける国際連合加盟国は、この地域の住民の利益が至上のものであるという原則を承認し、且つ、この地域の住民の福祉をこの憲章の確立する国際の平和及び安全の制度内で最高度まで増進する義務並びにそのために次のことを行う義務を神聖な信託として受託する。
- a. 関係人民の文化を充分に尊重して、この人民の政治的、経済的、社会的及び教育的進歩、公正な待遇並びに虐待からの保護を確保すること。
- b. 各地域及びその人民の特殊事情並びに人民の進歩の異なる段階に応じて、自治を発達させ、人民の政治的願望に妥当な考慮を払い、且つ、人民の自由な政治制度の斬新的発達について人民を援助すること。
- c. 国際の平和及び安全を増進すること。
- d. 本条に掲げる社会的、経済的及び科学的目的を実際に達成するために、建設的な発展措置を促進し、研究を奨励し、且つ、相互に及び適当な場合には専門国際団体と協力すること。
- e. 第12章及び第13章の適用を受ける地域を除く外、前記の加盟国がそれぞれ責任を負う地域における経済的、社会的及び教育的状態に関する専門的性質の統計その他の資料を、安全保障及び憲法上の考慮から必要な制限に従うことを条件として、情報用として事務総長に定期的に送付すること。
国連憲章第76条の下線部の趣旨を厳密に解釈すると、独立へ向かってとあるのであって独立の達成を義務をしていない。第73条に至っては自治の発達のみであり、非自治地域の独立については一切考慮に入れられていないことが分かる。 以上から自決権を法的権利として解することは難しいというのが通説的見解なのである[注釈 4][16][17][18]。
1960年12月14日に「植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言」[注釈 5][19][20]が、国連総会で賛成89票、反対0票、棄権9票で採択された[21]。
総会は、(一部略)いかなる形式及び表現を問わず、植民地主義を急速かつ無条件に終結せしめる必要があることを厳粛に表明し、 この目的のために、 次のことを宣言する。
- 外国人による人民の征服、支配及び搾取は、基本的人権を容認し、国際連合憲章に違反し、世界の平和及び協力の促進の障害になっている。
- すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し、並びにその経済的、社会的地位及び文化的発展を自由に追及する。
- 政治的、経済的、社会的又は教育的基準が不十分なことをもって、独立を遅延する口実にしてはならない。
- 従属下の人民が完全なる独立を達成する権利を、平和かつ自由に行使しうるするようにするため、かれらに向けられたすべての武力行為はあらゆる種類の抑圧手段を停止し、かつかれらの国土の保全を尊重する。
- 信託統治地域及び非自治地域はまだ独立を達成していないたのすべての地位において、これらの地域の住民が独立及び自由を享受しうるようにするため、ならかの条件又は留保もつけず、その自由に表明する意識及び希望に従い、人種、信条又は皮膚の色による差別がなく、すべての権利を彼らに委譲するため、速やかな措置を講じる。
- 国の国民的統一及び領土の保全の一部又は全部の破壊をめざすいかなる企図も、国際連合憲章の目的及び原則と両立しない。
- すべての国家は、平等、あらゆる国家の国内問題への不干渉、並びにすべての人民の主権的権利及び領土保全の尊重を基礎とする。国際連合憲章、世界人権宣言、及び本宣言の諸条項を誠実かつ厳格に遵守する。
当宣言は、人民の自決を基礎とし、あらゆる形態の植民地主義を終結させる意図が明記されているという特徴を持っている[22][23]。言い換えれば、「植民地独立付与宣言」は植民地人民の従属からの「外的自決」を趣旨としたものであるということになる。
国際人権規約は、「世界人権宣言」(1948年採択)の条約化・義務化を目指して1950年ごろから策定準備作業が行われ、1966年に採択された条約である。1952年には非同盟諸国と社会主義諸国の支持のもとに、国際人権規約案の中に自決権の条項が入れられるべきであるという決議が採択され、1955年に自決権の条項が完成した。現在は国際人権規約共通第1条に自決権の規定が盛り込まれている。
第1条【人民の自決の権利】
- すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。
- すべての人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
- この規約の締約国(非自治地域及び信託統治地域の施政の責任を有する国を含む。)は、国際連合憲章の規定に従い、自決の権利が実現されることを促進し及び自決の権利を尊重する。
ただ植民地保有国は、国際人権規約の中に自決権に関する規定を含むことに根強い反抗態度を取った。なぜならば国際人権規約は、人権と基本的自由を国際的に保障する多国間条約であり、したがって自決権の規定が入ることで自決権の法的確立を一層確実にすると考えたからであった。自決権の法的保障は自決権の否定を本質とする植民地主義の否定につながることを植民地保有国は恐れたのである。したがって国際人権規約策定においては、「自決は原則か権利か」、「自決権は盛り込む方が適切か否か」で植民地保有国とアジア・アフリカ諸国間で議論が紛糾した[24][11][25][26]。
国際人権規約を見ると、植民地人民から「すべての人民」へと自決権の適用範囲が広がり、「政治的地位を自由に決定する」という「内的自決」を仄めかしているともとれる文言が加わった。しかし「自己自身の統治形態を選択する」権利といった具体的な権利を示唆した決議案が採択されなかったこと、そして当時まだ植民地支配のもとで人権が保障されていないことに大方の問題意識があったことから、「外的自決」が念頭にあった[27]。
「国際連合憲章に従った諸国間の友好関係及び協力についての国際法の原則に関する宣言」(友好関係原則宣言)の議論は1960年から議論が積み重ねられていたが、「自決権」の規定に関しては1969年で初めて合意点が生まれるといった厳しい状況であった。しかしながら起草委員会などでの非公式の討議を通じて合意が積み重ねられていき、1970年にはコンセンサスで採択された[28][29]。
総会は、・・・・・(省略)一 以下の原則を厳粛に宣言する。
・・・・・(省略)・・・・・
- 人民の同権及び自決の原則
国際連合憲章にうたわれた人民の同権及び自決の原則によって、すべての人民は、外部からの介入なしに、その政治的地位を自由に決定し、その経済的、社会的及び文化的発展を追求する権利を有する。いずれの国も憲章の規定に従ってこの権利を尊重する義務を負う。
いずれの国も、共同の行動及び個別の行動を通じて、憲章の規定に従って、人民の同権及び自決の原則の実現を促進し、また、
(a)国家間の友好関係及び協力を促進すること、並びに、
(b)当該人民の自由に表明した意思に妥当な考慮を払って、植民地主義を早急に終了させること、
を目的として、かつ、外国による征服、支配及び搾取への人民の服従は、この原則に違反し、また基本的人権を否認するものであり、したがって憲章に違反するものであることに留意して、この原則の実施に関して憲章により委託された責任を遂行することについての国際連合に援助を与える義務を負う。
いずれの国も、共同の行動及び個別の行動を通じて、憲章に従って人権及び基本的自由の普遍的尊重と遵守を促進する義務を負う。
主権独立国家の確立、独立国家との自由な連合若しくは統合、又は人民が自由に決定したその他の政治的地位の獲得は、当該人民による自決権の行使の諸形態を構成する。
いずれの国も、この原則の作成にあたって上に言及された人民から自決権並びに自由及び独立を奪ういかなる強制行動をも慎む義務を負う。かかる人民は、自決権行使の過程で、こうした強制行動に反対する行動をし、また抵抗をするにあたって、憲章の目的及び原則に従って援助を求めかつ受ける権利を有する。
植民地その他非自治地域は、憲章上、それを施政する国の領域とは別個のかつ異なった地位を有する。憲章に基づくこうした別個のかつ異なる地位は、植民地又は非自治地域の人民が、憲章とりわけその目的及び原則に従って自決権を行使するまで存続するものとする。
前記パラグラフのいかなる部分も、上に規定された人民の同権及び自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国家の領土保全又は政治的統一を、全部又は一部、分割又は毀損しうるいかなる行動をも承認し又は奨励するものと解釈してはならない。
いずれの国も、他のいかなる国又は領域の民族的統一及び領土保全の一部又は全部の分断を目的とするいかなる行為をも慎まなければならない。
当宣言の議論過程における大きな特徴は、今まで自決権が政治規則であると主張していた西側が1966年の議論において自決権の法的性格を認めたことだ。このようにして自決権が法的性格を持つことには議場内で見解の一致が取れたものの、「自決権の持つ法的性格の意味合い」については見解が二分していた。社会主義国・非同盟諸国は、概して全ての人民は自決の権利を有するとする案を提出していたが、西側諸国の案は人民の同権と自決の原則を尊重する国家の義務を訴えるのみであった。ただ非同盟諸国が「国際人権規約第1条や植民地独立付与宣言などの国連の豊かな慣行が自決は権利であることを確認してきた」という主張の前に西側は後退を余儀なくされ、社会主義国・非同盟諸国の立場の勝利を決定づける文言になった[30][31]。
内的自決の理論の出発点として友好関係原則宣言が引用される。内的自決は一般に体制選択の意味合いで理解される。国家を内部から規定される政治体制、経済体制に関して「自分で決める」ということを訴えるのが内的自決理論である。
西側諸国の国際法学者を中心として、友好関係原則宣言の以下の該当箇所を反対解釈することによって導かれた。
前記パラグラフのいかなる部分も、上に規定された人民の同権及び自決の原則に従って行動し、それゆえ人種、信条又は皮膚の色による差別なくその領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国家の領土保全又は政治的統一を、全部又は一部、分割又は毀損しうるいかなる行動をも承認し又は奨励するものと解釈してはならない。
後半部は、「人種差別のない、領域に属する人民全体を代表する政府を有する主権独立国家では」領土保全を毀損する分離行動をしてはいけないという趣旨である。これを逆に捉えれば、人種差別があって、人民全体を代表していない政府を有する主権独立国家であれば、領土保全を毀損する分離行動をやってはいけないわけではないくらいの解釈が可能になる[2][32][33]。
友好関係原則宣言における「民族自決の法的性格の承認」は、国際司法裁判所の判例においても確認された。
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委任統治制度は、国際連合信託統治理事会の発足とともに、国際連合が直接ナミビアに対する責任を負うことによって消滅したが、当時のナミビアの施政国であった南アフリカは、依然としてナミビアに留まり続け、信託統治地域への移行を拒否した。
このナミビア事件をめぐり、国際連合安全保障理事会は1969年に決議276号を採択し、委任統治終了後に南アフリカ政府が行ったあらゆる行為は違法かつ無効と宣言した。翌年、国際司法裁判所は「当該安保理決議にもかかわらず、南アフリカがナミビアに留まり続けていることの法的帰結」に関する勧告的意見を求められた[34]。
国際司法裁判所は「国際文書はその解釈の時に広く行き渡っている法制度全体の枠内で解釈され、適用されなければならない」としたうえで、国際連合憲章、植民地独立付与宣言などの変化を踏まえ、人民の自決と独立を承認し、実質上自決権を法的権利として承認した[35]。
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内的自決理論の胎動に見られるように、元来植民地過程からの打開のためのイデオロギー(「外的自決」としての民族自決権)として専ら用いられていた民族自決権は、法的権利としての承認とともにその意味内容を敷衍させていった。(→「内的自決」の誕生,享有主体の拡大(少数者(マイノリティ)・先住民族など))
「友好関係原則宣言」後の1975年、ヘルシンキにて全欧安全保障協力会議が開かれ、締結された「参加国の関係を律する諸原則に関する宣言」(ヘルシンキ宣言、ヘルシンキ最終決定書)の第8原則(人民の同権と自決)は、内的自決に関して意義がある文書である。「常に」、「外部の干渉を受けることなく」「完全に自由に」また「その欲するときまたその欲するように」その国内的・対外的な政治的地位を決定し、そしてその政治的、経済的、社会的、文化的発展を望むように追求する権利を有するものとされた[27][36]。
Ⅷ 人民の同権と自決参加国は、国際連合憲章の目的と原則及び国際法の関連法規範(国家の領土保全に関するものを含む。)につねに従って行動することにより、人民の同権と自決権を尊重する。
人民の同権と自決の原則に基づき、全ての人民は、いかなるときにも、完全に自由かつ外部からの干渉なしに、自らの欲するときにに自らの欲する方法で、その対内的及び対外的な政治的地位を決定し、かつ、自らの政治的、経済的、社会的及び文化的な発展を追求する権利を有する。
参加国は、参加国間及び全ての国家間の友好関係の発展のために、人民の同権と自決の尊重及びその実効的な行使の普遍的意義を再確認する。参加国は、また、この原則に対するあらゆる形態の侵犯を除去することの重要性を想起する。
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植民地の独立がほぼ達成された今日では、国家内部の先住民・少数民族を含む民族にも自決権が及ぶかどうかが議論の対象となっている。また民族自決の内容については、学説上、そして国連加盟国の実践や議論においても一致していない部分が多々見られる。ゆえ、各々が信ずる根拠づけを利用してその内容と拘束力を示している。
1つ目は、人民の自決権を国家主権とイコールで結びつける見解である。例えば「経済的自決権」や「天然資源に対する恒久的主権」の問題は歴史的に国有化、そしてそれに対する補償原則を求める動きの中で展開されてきた[37]。
2つ目は人民の自決権を人権の一要素とし、自決権は人権の根底にあり人間の尊厳に関係する権利とする見解である。
3つ目は自決を自治とイコールで位置づける見解であり、自決を経済的・社会的・文化的発展段階に求めようとする[38]。
民族自決が国際法上の権利として確立していく過程で、他の国際法上の諸原則との関係性について討議の対象となった。
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1960年12月14日に採択された「植民地諸国、諸人民に対する独立付与に関する宣言」[注釈 5]の第6項の議論過程において民族自決と領土保全原則の問題は一旦植民地から独立を果たした国家からの分離独立の問題に焦点が当てられていた。ソヴィエト社会主義共和国連邦を例外として、国家の領土回復権、すなわち人民の自決権がいかなる国家の領土保全権をも害してはならないという解釈に反対はいなかった[39]。
1970年にコンセンサス採択された「国際連合憲章に従った諸国間の友好関係及び協力についての国際法の原則に関する宣言」(友好関係原則宣言)については、1969年の友好関係原則宣言に関する特別委員会での討議過程において、「他のいかなる国家または領域の民族的統一および領土保全の一部または全部の分断を目的とするいかなる行為も慎む国家の義務」が合意されていた[38]。
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