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桂 元盛(かつら もともり)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏の家臣。通称は源右衛門尉[1]。桂元澄の六男。母は志道広良の娘[1]。兄に元延、元貞、元親、景信、広繁がいる。一族の桂元次の跡を継いだ[1]。
天文16年 (1547年)、毛利氏の重臣・桂元澄の六男として生まれ、一族の桂元次の名跡を継いだ。
天正8年(1580年)に毛利氏が備前国に進出して、宇喜多直家に属する虎倉城主・伊賀久隆と戦い大敗北を喫した。この加茂崩れと呼ばれる戦いの後、毛利氏は備前勝山城を築き、伊賀氏に備えた。その際に元盛は城代として入城し、赤川元之、岡元良、竹井直定らと備前勝山城を守り、備中国の情勢を窺った。
天正10年(1582年)に伊賀久隆が不慮の死を遂げると、その一報を毛利輝元に報告。そして久隆の嫡男・家久が毛利氏に降ると、家久を勝山城に配した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長20年(1615年)の大坂の陣が終結し、元和偃武が成った後の元和8年(1622年)に『桂岌円覚書』を記した。これは岩国領の森脇春方が記した『森脇覚書』に対抗すべく、大永3年(1523年)の安芸国鏡山城の戦いから、慶長2年(1597年)の文禄の役までの歴史を記した覚書である。これは当時を知る貴重な一次資料で、『萩藩閥閲録』と共に、戦国期の毛利氏の活動を知る有力な資料となっている。また、この『桂岌円覚書』を根本として、吉川家の『二宮覚書』と『森脇覚書』、宍戸元続や岡元良ら古老の説話、若干の古文書や古記録等を参考として、輝元の祐筆である小田木工助が『老翁物語』を寛永元年(1624年)に記した。
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