Loading AI tools
平安時代中期の皇族、四品中務卿 ウィキペディアから
昭登親王(あきなりしんのう、長徳4年(998年) - 長元8年4月14日(1035年5月23日))は、平安時代中期の皇族。花山天皇の第1皇子。官位は四品・中務卿。
誕生時には父・花山法皇は既に出家しており、母・平子は出自が低かった。更に花山法皇は平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務も同時に寵愛して第2皇子・清仁親王を儲けるなど余りにも複雑な事情があったために、異母弟の清仁親王ともども祖父冷泉上皇の子(第5・第6皇子)として育てられた。このため世間では清仁親王を「親腹御子」、昭登親王を「女腹御子」と呼んで話題にしたという。
一条朝の寛弘元年(1004年)兄の清仁とともに親王宣下を受ける。執政の左大臣・藤原道長は複雑な背景を有する清仁・昭登への親王宣下に消極的であったが、花山法皇の意向を受けてやむなく従ったという。
寛弘8年(1011年)8月に藤原実資の加冠によって元服して、同年9月に三条天皇の即位に合わせて四品に叙せられる。その後、兵部卿・中務卿を歴任し、兵部卿在任中の万寿4年(1029年)四条油小路で火災が発生した際に親王邸が焼失している[1]。
※ 『尊卑分脈』による。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.