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春日型装甲巡洋艦 ウィキペディアから
日進(にっしん)は、日露戦争で活躍した旧日本海軍の春日型装甲巡洋艦の2番艦。一等巡洋艦(装甲巡洋艦)に類別された。同型艦は春日。
日進 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | アンサルド造船所(イタリア・ジェノバ)[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 装甲巡洋艦[2](一等巡洋艦) |
艦歴 | |
起工 | 1902年3月29日[2] |
進水 | 1903年2月9日[2] |
竣工 | 1904年1月7日[2] |
除籍 | 1935年4月1日 |
その後 |
1935年砲弾実験中に転覆 その後解体 |
要目 | |
排水量 | 7,700英トン |
全長 | 105.0 m |
最大幅 | 18.7 m |
吃水 | 7.29 m |
ボイラー | 円缶 石炭専燃8基 |
主機 | 直立三段膨張式三気筒レシプロ蒸気機関 2基 |
推進 | 2軸 |
速力 | 20.0ノット |
乗員 | 568名 |
兵装 |
45口径20.3cm連装砲 2基4門 40口径15.2cm単装砲 14門 40口径7.6cm単装砲 8門 45.7cm水中発射管 4門 |
日露戦争開戦直前に、大日本帝国海軍がアルゼンチン海軍から買い取ったジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦2隻のうちの1隻である。イタリアのアンサルド社にて起工されたのち、アルゼンチン海軍軍籍となり、1903年に「春日」と共に大日本帝国海軍が購入した。同艦をロシア帝国海軍も購入すべく画策していたが、日本の同盟国であった英国の仲介により日本側に売却された。なお、アルゼンチン海軍での艦名は「モレノ」であった。
当初は第3艦隊に所属していたが、旅順封鎖中に触雷により戦艦2隻(八島、初瀬)を失った後は、戦艦と同等(射程の長さ)の戦力があるために同型艦「春日」とともに第1艦隊第1戦隊に編入され(正式な転属は黄海海戦の後)、黄海海戦や日本海海戦の主力として活躍した。日本海海戦では少尉候補生として山本五十六(当時は高野姓)も乗艦している。
明治39年(1906年)5月10日に愛知県愛知郡の香久山、白山、岩崎の3村が合併した際には、日進の日露戦争での活躍と功績にあやかって新村名を日進村(現・日進市)としている。
日本海海戦において日進は第1戦隊の殿艦を務め、一時は一斉回頭により先頭を進むことがあり、それ故に東郷平八郎の座乗する旗艦「三笠」に次ぐ多数の敵弾を浴び、艦の指揮系統を含めて多数の戦傷者を出した。少尉候補生として乗り込んだ山本五十六(当時は高野姓)も海戦中に砲身爆発(敵弾によるとも砲門内爆発ともいわれている)により重傷を負っている。また第1戦隊司令官の三須宗太郎も左目を失明するなどの重傷を負っている。
アルゼンチン海軍大佐で日進の建造委員長だったマヌエル・ドメック・ガルシアも観戦武官として乗艦しており、その記録を「海戦記」としてまとめている。アルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスから車で1時間ほどにあるアルゼンチン海軍博物館には日露戦争関係の資料が展示されているが、その中にガルシアが戦争が終わってアルゼンチンに帰国した時に著した『日露戦争観戦武官の記録』(全5巻 約1400ページ)がある。戦闘現場からの報告に加え作戦の分析から日本海軍の戦略、更に当時の日本国民がロシア帝国に何を思い、戦争にどう挑んだかを記録している。機密資料として長い間アルゼンチンから出ることはなかったが、海上自衛隊の五味睦佳海将補(後に海将・自衛艦隊司令官)は、1993年に練習艦隊司令官として遠洋練習航海の部隊を率いてアルゼンチンを訪問中に、歴史資料館に案内された。その時日本の艦隊にアルゼンチンの観戦武官がいたという事実を知る。そしてアルゼンチンの海軍関係者に日本海海戦の関連資料を日本に提供して欲しいと働きかけ、1998年に日本語訳が出版された[3]。その後、日本海海戦から100年にあたる2005年にその増補・改題版[4]が出版された。
ガルシアの孫から聞いた話として高山正之は、司令官負傷の際に艦長も負傷し、ガルシアが代わりに艦の指揮を執ったという話を紹介した。ただしこれには艦長の負傷などに裏づけ(「海戦記」にも艦長は負傷していないと書かれており、日本側戦史の負傷者リストにも名前がない)がないと水交会が反論している。水交会では戦闘に参加したとしても砲の射手を務めたに過ぎないとしている。
1912年11月18日、演習および観艦式からの帰路の途中で寄港していた清水港で「日進」の火薬庫爆発が発生した[5]。午後6時50分ごろ後部8インチ砲塔付近で爆発が発生したが、火薬庫注水などの措置が迅速に行われ、損傷は軽微なものにとどまった[5]。人的な被害は死者2名負傷者17名であった[5]。航行も可能であった「日進」は横須賀に回航され、「筑波」艦長の鈴木貫太郎大佐を委員長とする横須賀鎮守府の査問会により事故調査が行われた[6]。実質10日間の査問期間で爆発の原因は火薬の自然発火であるとの結論が出されたが[7]、後日真因が明らかとなった。1913年8月に殺人事件を起こした予備役二等兵曹が、「日進」の火薬庫を爆発させたと告白した[8]。不満を抱いていたこの人物は艦長に脅迫状を送ったものの反応がなかったため艦の爆破を企んだのであった[8]。その後、予備役二等兵曹は、翌年の1914年7月7日に舞鶴鎮守府軍法会議によって死刑判決が下され、1915年に死刑執行されている[9][10]。また、大正時代で殺人罪との併合があれど、海軍刑法(罪状:艦船破壊未遂罪)を犯した罪により唯一死刑執行された事例である。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
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