増田高頼
ウィキペディアから
ウィキペディアから
増田 高頼(ますだ たかより、1868年7月24日(慶応4年6月5日)- 1929年(昭和4年)2月19日)は、日本の海軍軍人、士族、海兵18期。兵種は砲術科。最終階級は海軍少将。
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
佐賀県出身。肥前唐津藩の国家老、増田卓爾の次男として生まれる。1891年(明治24年)、海軍少尉候補生として比叡に乗り組む。1894年(明治27年)、海軍少尉として任官。日清戦争時には浪速分隊士として出征。主に艦隊乗組などを経て、1904年(明治37年)、海軍少佐に昇進。日露戦争の日本海海戦時には、大本営海軍部作戦班参謀(軍令部参謀)を務める。日露戦争終結後は、磐手、朝日の砲術長、武蔵の副長を経て、在清国公使館附武官補を命ぜられ、主に天津で情報収集活動に携わる。
1908年(明治41年)海軍中佐に昇進後、1912年(明治43年)帰朝し第三艦隊参謀に着任。1914年(大正3年)、海軍大佐に昇進後は、厳島、日進、朝日、安芸の艦長を歴任。1918年(大正7年)、台湾総督府海軍参謀長に就任する。1919年(大正8年)に海軍少将へ昇進し、同年、予備役へ退いた。1924年(大正13年)には後備役へ編入され、1929年(昭和4年)2月19日、肺結核のため療養中であった神奈川県茅ヶ崎市にて没。享年60。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.