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日本の戦国時代-安土桃山時代の武将 ウィキペディアから
戸田 忠次(とだ ただつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。田原戸田氏2代当主。戸田光忠(忠政)の嫡男として誕生した。通称は三郎右衛門。
三河国田原(現在の田原市田原町)の国人戸田氏の支流。光忠の兄戸田康光は田原城を中心に三河湾沿岸を支配していた。康光は天文16年(1546年)に松平竹千代(後の徳川家康)を駿河国へ護送する役を今川義元から任せられたがこれに背き、尾張の織田信秀に売り飛ばして怒りを買った。田原城に攻め込んだ今川軍によって田原戸田氏は滅ぼされたが、光忠は脱出して岡崎に逃れた。
永禄6年(1563年)、忠次は三河三ヵ寺(佐々木上宮寺・野寺本証寺・針崎勝鬘寺)や土呂本宗寺が徳川家康に対して起こした三河一向一揆に応じた。しかし、戸田家は徳川家と縁戚関係・主従関係があったため内通を疑う者もあり、これを恨んだ忠次は翌7年(1564年)に徳川方に転じ、一揆鎮圧の軍勢に加わった。
その後次第に出世して渥美郡大津(現在の豊橋市老津町付近)に2300石を与えられ、永禄11年(1568年)12月からの遠江侵攻、翌年正月の掛川城攻め、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦い、駿河国田中城攻め、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正18年(1590年)の小田原征伐などで功績を挙げた。家康の関東移封にともない、伊豆国下田(現在の下田市)5000石の封地を与えられた。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の折には老齢の身ながら肥前国名護屋城にいた家康に謁し、もし徳川軍の朝鮮出陣あらば推して従軍せんことを請うたという。豊臣秀吉はこれを聞き「壮者の亀鑑」と称賛したという。
慶長2年(1597年)6月、極老の衰病からもはや奉公に適う身でないと知り、病を押して江戸の家康に謁した後下田に戻り、同月23日に死去した。享年67。生前は臨済宗妙心寺派の乾瑞和尚に帰依し、乾瑞は泰平寺殿英巌玄雄大居士の戒名を与えた[2]。法名は玄雄。
嫡子の尊次が家督を継いだ。尊次は田原城主となると城内に英巌寺を建立し、忠次を開基とした[2]。この時、忠次の戒名は英巌寺殿傑秀玄雄大居士に改められた[1]。
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