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弘治の内乱(こうじのないらん)は、弘治元年(1555年)から永禄3年(1560年)頃まで能登国において続いた合戦。
弘治の内乱/能登の合戦 | |
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戦争:反畠山義綱派の家臣による謀反 (新当主に畠山晴俊の擁立) | |
年月日:1555年~1560年 | |
場所:能登国全域 | |
結果:義綱方の勝利・晴俊方の敗北 | |
交戦勢力 | |
義綱方 | 晴俊方 |
指導者・指揮官 | |
畠山義綱(大将) 飯川光誠 笠松但馬守 平続重・長続連兄弟 遊佐続光 三宅続長(宗隆の父) 八代俊盛(越中椎名氏) 甲斐庄家繁 山田左近助(後に温井方に転身) 神保長頼(周防守、綱誠の子) |
畠山晴俊(大将) 温井続宗(総貞の子) 温井続基(総貞の弟) 温井綱貞(総貞の弟) 温井孝景 三宅総広(総久) 三宅綱久 三宅綱賢(後に義綱方へ転身) 三宅俊景 三宅慶甫 神保綱誠(長誠の子) |
戦力 | |
不明 | 不明 |
損害 | |
- | 大将・畠山晴俊以下、温井続宗、三宅総久、神保綱誠、温井綱貞、三宅俊景らが戦死。 |
能登畠山家で実権を握っていた温井総貞を排除しようと、畠山義綱が暗殺したことにこの合戦の原因があると言われる。温井氏と温井氏と縁が深い三宅氏は、総貞の暗殺に義綱に対して挙兵したのが弘治元年(1555年)である。温井氏らは、畠山一族の畠山晴俊(はたけやま はるとし)[1] を当主として擁立し、加賀の一向一揆を頼りとして合戦を展開する。
しかし、勃発序盤から反乱軍は劣勢であり、この期間には、反乱軍の主軸となっていた大将の畠山晴俊以下、温井続宗、神保総誠(綱誠)、三宅総広らが戦死するほか、三宅一族の三宅綱賢が義綱方に転じるなど、反乱軍は甚大な被害を被り、一旦加賀へ退去した。
同年7月、残党の温井綱貞らが再び能登へ侵攻する。更に9月には義綱軍の山田左近助が温井方へ寝返るが、綱貞・三宅俊景の戦死により、反乱軍は撤退を余儀なくされた。
1559年3月には一向一揆を率いて再び攻め込むが長続連により撃退され、反乱軍は押水まで後退。永禄3年(1560年)頃になると温井残党は能登から一掃され、ほぼ義綱方の勝利で内乱は終息を迎えた。生き残った温井孝景、三宅慶甫、三宅綱久らは降伏したものとみられる。
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